何事であれ、様々な視点からいろいろな評価が可能だ。天皇制についても同様である。わたしの気になっている天皇制の一面について、書いてみたい。
天皇制は、他の人たちに言うことを聞かせたい人々に利用されがちだ、という点である。
人徳や才能があれば、おのずと人は尊敬の念を抱く。しかし、徳も才能もないのに、人々を従わせたい人は、しばしば天皇制を利用し、天皇を笠に着て威張り散らす。
分かりやすいのは、戦争中の軍隊だ。
「畏れ多くも」とか「かしこくも」といった言葉が発せられた瞬間、「天皇陛下」と言う前に、そこにいる全員を直立不動にさせることができた。そのうえで、天皇から預けられた銃の手入れが悪いと言って、兵隊を殴る。しかし、その上官の立場からすれば、若い兵士は天皇から預かっている天皇の赤子ではないのか。天皇から預かった銃の手入れが悪いからと言って、天皇から預かった天皇の赤子を力いっぱい殴るのは、論理が破綻している。つまり、天皇制を心底絶対視しているのではなく、威張り散らしたいために天皇制を利用しているのだ。
軍隊の末端の現場だけのことではない。
そもそも中世以降、天皇家は、権力を握りたい新興勢力が勃興してくるたびに、征夷大将軍などの位を授けてお墨付きを与え、自分たちを守らせてきた。天皇から位ともに与えられた権威で抵抗勢力を押さえつけ、その権威を小分けにして自分の組織の末端まで分配することで、支配の体制を完成することができた。天皇制は、天皇制を利用して支配しようとするものに支配の権威を与え、それによって天皇制は生きながらえてきた。支配するものと天皇制とは、持ちつ持たれつなのだ。
(このことは、マッカーサーと昭和天皇の関係にも、あてはまると思う。)
権威による支配とは、いいかえれば空気による支配である。この支配は支配の階層を滴り落ち(トリクル・ダウンし)、軍隊であれば新兵教練の現場にまで浸透する。そこまで露骨ではないが、現代でもこの権威による支配、空気による支配は、我々の身近な様々な場面で隠然たる力を保持している。忖度させる力と言い換えることもできる。
それを窮屈な圧迫として感じないという人がいれば、その人は、おそらく権威を利用して支配する側の末端にいるのではないだろうか。
この天皇制の、支配する人たちにその権威を利用されやすいという性質は、民主主義にとって障害となる。
徳も才能もないがいうことを聞かせたい人たちは、意見を言わせず、黙って従わせようとする。その時、権威による支配、空気による支配は、絶好の道具だ。人々は、みずから忖度するように仕向けられ、自分の考えではなく、支配する側の都合を慮る。民が主である民主主義ではなく、支配する側の空気が強まっていく。
これは天皇制の本質に根差す問題なのだろうか。それとも、支配する側に利用されない、権威を笠に着た支配に転化しない、忖度のない自由な意見表明と両立する天皇制というものはあり得るのだろうか。
ヨーロッパの王室を持つ国の事情などを参照すれば、参考になるのかもしれない。しかし、以前イギリスで短期語学研修を受けているとき、Queen Mother の話題になって、わたしが軽く、”Who is she?” と呟いたら、女性教師はすかさず人差し指を立て、”Be careful!” と制した。そこには明らかに威嚇のトーンがあった。イギリスでも王室は、人を服従させようとする権威を人にもたらすのだろう。
ともあれ、権威による支配が天皇制に本質的に根差しているとしても、それをみずからの支配のために利用しようとする人たちの思惑を我々は常に警戒し、抵抗せねばならない。忖度させる空気の支配に負けずに、互いに言いたいことを言い合って空気を入れ換え、わたしたちの民主主義を頑強なものに育てていかなければならない。
これこそが、憲法12条が自由及び権利の保持のため国民に要求する「不断の努力」である。
2019年11月12日 曽我逸郎
書き洩らしたこと、二つ追加(2019,11,14)
① 昭和天皇とマッカーサーの関係については、スムーズな占領支配に昭和天皇を利用したいマッカーサーの思惑と、内外の共産主義勢力からマッカーサーに自分を守らせたい昭和天皇の思惑とが一致し、その結果が、砂川事件の田中最高裁長官による統治行為論などを経て、現在の、憲法が定める国民の権利よりも、日米合同委員会の密室で結ばれた密約が優先するという状況に繋がっていると思う。
② 天皇制の問題点としては、責任を上下の間で薄めてあいまいにしてしまい、誰も責任を取らないという無責任な体制になりやすいという点もある。