◆ 平和主義はお花畑か?
「お花畑」というのは、インターネット上で使われる言葉で、「現実をわきまえない夢物語」というような意味です。 ネトウヨ(インターネットを匿名で徘徊する反サヨク思想の持主)は、「平和主義はお花畑」と揶揄します。また、「東アジアの緊迫する安全保障環境の現実を直視すれば、国民を危険に晒しておくわけにはいかない」と、軍備の増強を主張する人たちもいます。突然大手を振って語られるようになった敵基地攻撃論は、そのひとつです。
はたして、平和主義は、お花畑なのでしょうか? 反対に、軍事力増強論は、現実的なのでしょうか? 検証したいと思います。
◆ 敵基地攻撃論は、へぼ将棋
へぼ将棋とは、自分の手作りばかりに夢中になって、相手がどうでるかを想像していない下手な将棋です。 こちらの行動は、必ず相手の反応を引き起こします。 敵基地を攻撃すれば、どういう反応があるのでしょうか。あるいは、敵基地攻撃能力を備えるだけで、または、口にするだけでもどういう変化をもたらすのでしょう。
まず、攻撃を察知して、事前に相手の基地を攻撃すれば、それで戦争は終わるのでしょうか? 太平洋戦争の開戦にあたって、日本は米国の国力を認識していましたが、「緒戦に勝って戦意をくじき、和平に持ち込む」というお花畑な見通しを立てました。確かに緒戦には勝ったものの、案の定、生産力の差は歴然で、その後は敗退を繰り返し、アジアの人々を含む大勢を犠牲にして無条件降伏に至りました。一度始めた戦争は、簡単に終えることはできないのです。
敵基地攻撃能力を口にするだけでも、相手は反応します。「こちらも備えねば」と考えるに違いありまりません。そうなれば、またその新たな「現実」に対処するのが「現実的」ということになってしまいます。きりのないシーソーゲーム。危険の度はみるみる高まります。愚かな安全保障のジレンマです。
すでに北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)のミサイルには、単純な弾道ではなく、軌道を変えながら飛行するものがあるそうです。今のミサイル防衛システムで撃ち落とすことはできません。となれば、これに対応する新装備を開発して配備し、その後も同じようなイタチゴッコを繰り返すのでしょうか。 飽和攻撃(防御能力を上回る攻撃を一挙にしかけること)をされないためには、どれだけの迎撃ミサイルが必要になるのでしょう。
抑止力というような無益なことに国の富を費やすより、お互いに国民を幸せにすることに励んだ方がいいに決まっています。
ソ連が経済的に軍拡競争についていくことができなくなったために、アメリカは冷戦に勝つことができました。軍事抑止力増強論を主張する人たちが想定している相手は、おそらく中国でしょう。では、日本は、中国と軍拡競争をしてついていくことができるのでしょうか? 際限のない軍拡競争に突き進む覚悟を決めた上で、敵基地攻撃能力を主張しているとは思えません。
縁台将棋なら「待った!」も言えるでしょう。しかし、目先の「現実」に恐れおののいて反応するだけの、近視眼的なへぼい「現実主義」は、現実をさらに悪化させます。
◆ 軍備増強論者にみられる「リスクのつまみ食い」
中川村長を務めていた時、自民党国会議員が野党側でない伊那谷の市町村議員を集めた会に呼ばれて、参加したことがあります。 安全保障に詳しいと紹介された国会議員が来賓として講演し、「日本は原発がたくさんあって危ない」と切り出しました。「自民党が原発の危険を説くとは!」と驚いていると、「だから、原発を守るミサイル防衛網が必要だ」という話の展開でした。リスクを利権につなげるしたたかさと牽強付会にあきれました。
原発は、軍事的には自爆装置、自爆核爆弾に他なりません。狙われたら大変なことになるのは仰るとおりです。だからこそ、すみやかに原発依存をなくし、廃炉せねばなりません。しかし、自民党は、再稼働を進めています。
ミサイル攻撃など持ち出さなくても、原発は、いつ起こってもおかしくない地震の危険を抱えています。なのに地震のリスクには頬かむり。 軍備増強論者は、ミサイルのリスクばかり喧伝しますが、ミサイルは単なる運搬手段にすぎません。核爆弾を持ち込もうと思えば、他の運搬手段はいくらでもあります。原発を狙う気であれば、核爆弾も必要ありません。小説『原発ホワイトアウト』の結末は、豪雪の日に山中の送電線を倒され、外部電力を奪われた原発が、冷却能力も失い暴走するのを手をこまねいてみているしかない、というシーンでした。
自民党は、金になる都合のいいリスクは騒ぎ立てる一方で、都合の悪いリスクはほったらかしにしてタカをくくっています。国民のためには、あらゆるリスクを合理的かつ平等に評価して備えねばならないはずです。安全保障問題を利権のためのリスクに仕立ててつまみ食いすることは許されません。敵基地攻撃能力は、利権の新たなつまみ食いの材料にされかけています。
◆ 新たな紛争の形を理解しない「現実主義」者
「仮想敵国がミサイルで攻撃してくる」というのは、戦争の古いイメージです。昨今では、「テロとの戦争」といわれるように、もはや誰と争っているのかもはっきりしない紛争がほとんどになりました。争いとなれば、どこで誰に何を仕掛けられるか予想はできません。とはいえ、それでもテロ組織の後ろにはどこかの国が関与している場合が大半でしょう。 つまり、どこかの国と緊張関係を高めれば、ミサイルといった旧来型の戦争だけではなく、事故かどうかも見分けられないテロにも備えねばならなくなります。 緊張をいたずらに高めず、いかなる組織も不穏なことを考えない状況をつくりだすにしくはありません。
◆ そもそも自称「現実論」者は、安全保障に真剣でない。
敵基地攻撃能力が突然話題にされはじめたきっかけは、イージス・アショア導入のとん挫でした。 まず適地選定にグーグル・マップを使ったことが問題になりました。イージス・アショアは、レーダーによるミサイルの探知や迎撃ミサイル発射のため、一定以上の高さの山が近くにあってはなりません。その割り出しを、精密な地図や測量ではなく、インターネットのグーグル・マップで安直にやっていたことが露見し、作業のやり直しが余儀なくされたのです。 そして、最終的に導入が撤回されることになった理由は、迎撃ミサイルの一段目のブースター(推進装置)が、住宅地に落ちる可能性があること。地元に約束してきたとおり基地内に落ちるようにするためには、設計変更に膨大な予算と時間が必要になることが、今頃になって判明したのです。そんなことは、最初に確認しておくべきことではないでしょうか。
計画が中止されたこと自体はよかったと思います。しかし、4500億円の予算を見込み、既に米国側と1800億円の契約がなされています。巨額の税金と多大な準備作業を費やして、「国民の命と財産を敵国の攻撃から守るため」と声高に叫ぶ割には、あまりにも杜撰な仕事ぶりです。口で言うほどには安全保障をまじめに考えていないのです。そのことは、先に書いた、ミサイルの脅威を叫びつつ原発再稼働をすすめる矛盾からも明らかです。「現実論」者がなぜ安全保障を声高に叫ぶのか? その理由は、利権か、あるいは米国に貢ぐためだろうかと、勘繰らざるを得ません。
◆ 抑止力重視は、外交の巾を歪ませる。
2020年広島の「原爆の日」で、安倍首相は、「唯一の戦争被爆国として核兵器のない世界の実現に向けた努力を進める」と述べました。しかし、我が国は、国連で採択された核兵器禁止条約の締約を拒否しています。ヒロシマ、ナガサキでなくなった方々に顔向けできません。おり、世界の顰蹙を買っています。なぜ世界から期待される役割に背を向けるのか。それは、米国の核の傘にすがっているからです。
核だけではありません。日米安保のもとで、軍事力増強を進めれば、米軍と自衛隊の一体化を進めるほかありません。組織・体制も情報量も圧倒的に上回る米軍に付き従うなら、自衛隊は、実質的に米軍の指揮命令下に入ることになります。兵器の部品や消耗品の供給でも米国に依存することになるし、IT化の進んだ兵器のコンピュータ・ソフトのアップデートでも、米側に見放されたらどれほど高価な兵器システムも無用の長物になります。軍事力を増強するほど、米国に取り込まれ自律性を失っていきます。
極めつけは集団的自衛権です。やられている米軍を助けに入るといいますが、柳条湖事件、トンキン湾事件などを見ればわかるとおり、戦争はたいていやられたふりで始まるもの。集団的自衛権は、米国の戦争に自衛隊員を「どうぞお好きにお使いください」と差し出すことです。傭兵であれば、装備も給料も雇い主の国が持ちます。しかし、集団的自衛権では、それも日本の税金で賄うのです。その中には、米国から購入した高額の兵器も含まれます。日本人の若者を血税で米国から買ったハイテク兵器とともに米国の戦場に送り出すのが集団的自衛権です。何重にも売国的だというしかありません。
軍備増強論者は愛国者を装いますが、実は従米・媚米にならざるを得ないのです。自民党は、米国の機嫌を取るために、自衛官をイラクその他に派遣し危険に晒してきました。日本の外交は米国に追従するばかりです。こんなことを続けていれば、沖縄で端的にみられるように、憲法で保障された国民の権利よりも米軍の都合が優先される属国的状況が永遠に続くことでしょう。日本独自の理念で世界に貢献することなど、未来永劫不可能です。
◆ 軍備増強論は、国民生活も地球環境もひっ迫させる。
今、新型コロナに直面して、医療・保険体制の脆弱さが露呈しました。福祉の最前線で働く人たちのご苦労にも報えていない状態が続いています。教育費も自己負担が重くなり、勉学に打ち込めるのは恵まれた条件の若者だけです。生活保護の捕捉率は低いままで、多くの人が憲法が保障する「健康で文化的な生活」を営めない状況に放置されています。頻発する異常気象への備えも充実させねばなりません。 この状況でも、際限のない軍拡競争に踏み出すのでしょうか。ひとたび軍拡の方向に舵をきれば、相手にも対抗する反応を生み、シーソーゲームから降りることはますます難しなっていきます。それは、ミサイルにだけ備えを固める一方で、新たな病原体によるパンデミックや自然災害への備えをなおざりにすることです。国民の救済を後回しにすることです。
戦争は、人間と人間の問題であり、知恵と努力で避けることはできるはずですが、病気や自然災害をなくしてしまうことはできません。医療や福祉や貧困対策や教育など、暮らしを支えることにこそ、お金を使い、今苦しんでいる人を助けるべきです。 気候変動を引き起こしている地球温暖化に直面している今、人を殺し暮らしを破壊するための準備に税金を費やすことを、子どもたちに納得できるように説明できるのでしょうか。
◆ 真の現実主義とは?
軍拡路線は愚策であることを述べてきました。
「危険な道具を制御能力のない者に持たせてはならない」という意味のことわざがあります。今の政治家や官僚たちに安心して軍事力を預けておけるでしょうか。 逆に言えば、懸命の努力をして、知恵をつくし、工夫を重ねれば、軍事力に頼る度合いを低くすることができるでしょう。 軍拡に走る前に、外交力、交渉力、情報収集分析力、広報力、それらの総体である政治力を高め、人類史にどういう貢献をするかという根本の理念を深く考えることが優先するのは当然です。
ただし、今すぐ一挙に軍事力を放棄すると言っているのではありません。大きな船の進路を変えるには、一定の時間が必要です。 さらなる軍拡に踏み出さず、現状を維持しつつ、外交力、政治力を磨き育てるのです。 そして、日本だけがそうするのではなく、「人を殺しインフラを破壊するために予算を割き、軍事力で他国の人々を脅すことは恥ずかしいことだ。時代遅れの考えだ」という世界常識をつくっていきます。
理念を堂々と掲げ、みずからそれに則ったふるまいをする努力をします。理念とは、日本国憲法前文に掲げた「崇高な理想と目的」です。
「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認」し、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占め」る(リーダーシップを執る)という誓いです。
外国の政府のみならず、内外の市民とも連携していかねばなりません。災害救援や人道支援をもっと充実し、難民の受け入れも拡充すべきです。個別具体の紛争の調停にも汗を流します。 これらのためには、情報を収集・分析し正しく判断する能力が必要ですし、行動原理たる理念を世界に発信する広報力も必要です。 この努力が実を結んだとき、日本は世界中の市民から共感を得、尊敬され愛される国になることでしょう。これこそが最高の安全保障だと思います。そして、我々自身も、自分の国を誇りにすることができます。 国民の暮らしを支えることにもっとお金を使えるようになります。
地球温暖化による気候変動が現実となる中、世界は、新型コロナの洗礼を受けました。これまでとは違う新たな時代をつくっていかねばなりません。日本は、世界の先頭に立ってこのような努力をすべきです。
◆ 結論
果てしない軍拡競争への道へ自ら踏み出し、国民の暮らしのために使うべき大切な予算を縮減させるような愚挙だけは、してはなりません。
2020,8,9ナガサキ原爆の日 #そが逸郎立憲民主党長野5区総支部長