2020,11,10
『人新世の「資本論」』(斉藤幸平著・集英社新書)を読みました。
斬新な視点からの大変刺激的な本です。
しかし、国家に対する評価は、概して否定的であり、特に後半では、政党に役割はないのか、という問題意識が沸きました。破滅に向かう人類史を転換する上で、市民運動や自治体の取り組みが期待されているのに比べて、国家や政党への言及は多くありません。特に政党についてはまったく触れられていなかったと思います。
こんな印象を持ったのは、政党の一員になって以来、多くの主権者の政党というものに対する否定的な態度を思い知らされているからでしょう。
この本の要点はこうです。
人類の活動が地球環境に甚大な影響をもたらしている。
地質時代として、「人新世」に突入したと認識すべきだ。
マルクスが晩年にたどり着いたコミュニズムは、脱成長のコミュニズムであり、これこそが「人新世」の危機を救う。
このように主張しています。
わたしなりに要約してみます。
資本は、みずからの価値を高め、増殖していこうとする。そのために、できるだけ多く生産し、消費させようとする。また、ブランド化や囲い込み(一部の人以外の排除)によって、希少性を捏造し、商品価格を吊り上げる。そのようにして利益を増大させようとする欲望が資本主義の原動力だ。資本主義と経済成長は、一体である。
資本主義は、経済成長のために歪みを生み出さざるを得ない。しかし、それを外部(植民地や途上国)に押し付けることで、「先進国」から見えなくしてきた。資本主義が生み出す歪みとは、資源の乱獲、大量の廃棄物生成、低賃金労働、劣悪な労働環境などである。しかし、肥大してグローバル化した資本主義は、歪みを押し付けるべき外部をもはや失って、限界に到達している。(例えば、非正規雇用の増大などの格差は、これまで外部でおこなってきた労働搾取を、先進国内部でやるほかなくなった結果だと思います。)
あまたある歪みのなかでも、気候変動は、外部に転嫁できない課題であり、これまで資本主義のうまみだけを堪能してきた先進国も逃れることはできない。行き詰まった資本主義は、地球環境と人類文明を破綻させようとしている。
さまざまな対策が提起されているが、どれも気休めのアリバイ作りにすぎず、本気ではない。たとえば、国連が提唱するSDGsは、危機に対処している気にさせてくれるだけで、罪の意識をしばらく忘れるためのアヘンにすぎない。なぜなら、SDGsをはじめとしてさまざまな取り組みが提唱されているが、それらはどれも、経済成長を前提としているが故に、資本主義の枠の中にあり、それが生み出す歪みを超克できない。
これまでマルクスの思想とされてきた伝統的コミュニズムも、経済成長を目指す枠組みの中にあった。マルクスのコミュニズムも、当初は、生産第一主義、進歩史観・ヨーロッパ中心主義の考えだった。しかし、資本論第一巻を書いた後、マルクスは、それらを脱却し、脱成長のコミュニズムに到達した。その転回をもたらしたのは、ロシアの農民共同体ミールやゲルマン民族のマルク共同体などを知ったためである。このことは、これまで注目されていなかったが、残された手紙やノートを精読すれば、見えてくる。しかし、この晩年の着想はあまりに画期的、根本的な転換であり、マルクス自身、著作にはできなかった。盟友エンゲルスも理解できず、エンゲルスが編集した資本論第二・第三巻は、経済成長主義の中にとどまっている。その結果、これまでのコミュニズム解釈は、資本家に替わって官僚が成長を目指す国家資本主義とでも呼ぶべきものに留まるしかなく、破綻した。今までコミュニズムと呼ばれてきたものは、いうなれば資本主義の一変種にすぎなかったのだ。
それに対して、マルクスが晩年に到達した脱成長のコミュニズムは、資本主義を根底から覆すものである。
資本主義の歴史では、人々が共同管理してきた共有財(コモンズ、例えば入会地)を、産業革命以来、資本が一貫して囲い込み、そこから人々を排除してきた。共同管理のもと誰もが無償で潤沢に利用していたものを、資本は囲い込み、独占して利潤追求に利用してきた。必要を超えて生産しつつ、広告やブランド化などによって人工的に希少化して高価格をつけて販売し消費させてきた。それによって数字の上の経済成長が生まれるが、それとともに、格差や貧困、環境破壊も生み出す。
今や地球環境は、ポイント・オブ・ノーリターンに差し掛かっている。マルクスが最後に到達した、脱成長のコミュニズムこそが脱出口になる。コモンズを資本から奪還し、資本がでっちあげた希少性に踊らされず、もともとあった潤沢さをみんなで共有する。商品価値ではなく使用価値のために働くようになれば、ブルシット・ジョブ(無用なクソ仕事)はなくなり、労働時間は短縮される。これによって、利益のために生産と消費を拡大することはなくなり、環境に負荷を与えず、平等で、真に潤沢な社会が実現される。
そして、そのためのさまざまな実践が紹介されています。
たとえば、わたしも理事の末席にいる協同総研が法制化に取り組んできた、協同労働の協同組合(ワーカーズ・コープ)が取り上げられていて、うれしく思いました。(資本主義社会の企業が、株主などによる所有と、経営と労働の三つに分離されているのに対して、ワーカーズ・コープは、所有も経営も労働もすべて労働者の組合が行うというあり方です。)
黄色いベスト運動やサバティスタ、国際農民組織ヴィア・カンペシーナのような市民の抵抗活動、またバルセロナなどの自治体の取り組みを、脱成長のコミュニズム実現に向けた模索として、著者は高く評価しています。
しかし、このような取り組みだけで、気候変動の危機に対処することはできるのでしょうか。本の前半で危機の切迫度が強調されているだけに、そう感じざるを得ません。スピードが足りないだろうと思います。利益拡大を目指す世界中の株式会社を、一挙にワーカーズ・コープに置き換えることはできないでしょう。
人新世を改める大きな方向として脱成長の考えは正しいと思います。しかし、それと同時に、著者が評価していない技術革新や他の「経済成長の枠内の」対策なども積み上げねばならないと思います。
さて、では、冒頭に書いた問題意識です。
この本の全体的なトーンは、国家に対しては否定的です。
確かに、国家は、資本を支え、資本と手を携えて成長を競い合ってきたと言えるでしょう。国家は、資本が利益を追求するための環境を整え資本主義を支えるシステムの一部分である、と捉えることも可能です。最近では、国家は、グローバル資本によって、国民から利益を吸い上げるための集金装置として使われていると思うこともあります。そして、そのことに国家は抵抗していないようにも感じます。
しかしそれでもなお、国家を使わねば、必要な変革は実現できないのではないでしょうか。
国家は、暴力を独占し、徴税し法規制を強制する力を持っています。国家を置き去りにしたままでは、迅速に秩序をもって必要な変革を実現することはできないでしょう。「3.5%の人々が立ち上がれば、世の中は大きく変わる」と著者は言っていますが、気候変動に関しては、国家の姿勢を変えることで、世の中を変えるしかないのではないでしょうか。著者自身、「気候変動の対処には、国家の力を使うことが欠かせない」と書いています。そのためには、民主主義の刷新がかつてないほど重要だとも言っています(p355)。つまり、人々の力で民主主義を刷新し、それによって国家を変え、国家の力を使って危機に対処せねばならないと考えます。
国家の考え方、方針を変えねばなりません。国の方針を変更し、それを広く普及させるには、法制度を変更せねばなりません。それは、国会議員(lawmaker)の役割です。となれば、多数の国会議員を擁して法案を成立させようとする政党は、やはり重要です。
ただしそれは、これまでとおなじように重要だということではありません。刷新された民主主義のもとでの新たな役割を果たすことが重要になります。すなわち、政党の様態も刷新されねばなりません。3.5%の人たちが先頭に立ち、人々が大きなうねりを作り上げる。政党は、そのうねりに応えてそのうねりとともに国家を変えるために働くのです。
これまで政党は、「自分たちの手で国を変える」などと高揚しながら、現実には、政権保持(奪取)、議席確保(獲得)のために、権謀術数に走り、数合わせの談合を繰り返し、選挙の時だけ主権者におもねてきました。それによって、政党に愛想をつかしている主権者も多くいます。そういうあり方ではなく、主権者に使われる政党にならねばなりません。わたしが以前からいっている、ポケモンとしての政党、飼い主である主権者に育てられ、調教され、主権者に命じられ主権者のために闘う政党というあり方です。
しかしながら、そういう状況を、政党の側からどうやってつくっていくべきか、わたし自身まだよく分かっていません。人々のうねりを待ってそれを受け入れ、対応するだけでいいのか。あるいは、こちらからもっとアジテーションすべきなのでしょうか。
主権者に使われる政党といっても、主権者からの評判を気にして、そのつど言説を変えるのではないでしょう。それはこれまでのやり方ですし、主権者を敬っているように見せながら、実は見下しています。そうではなくて、主権者ときっちりと議論することが、すくなくとも必要ではないかと感じます。
結論のない尻切れトンボになりました。
残念ながら、現時点で書けるのはここまでです。
ご意見お聞かせいただいて、主権者と政党のあるべき関係について、さらに考えたいと思います。
そが逸郎 立憲民主党長野5区総支部長