新型コロナウイルス 経済対策

 表題の件、なんとかせねばならんといろいろ考えた試行錯誤を、メールニュースで発信しました。ここにも掲出します。

◆ そが逸郎通信 第9号 3/22

 <新型コロナへの緊急経済対策として国民に現金給付するのは間違い>

 新型コロナウイルスによる経済的打撃が広がっています。それに対する緊急経済対策として、自民党は国民への現金給付を検討している、との報を耳にしました。
 これは間違った施策です。

 国民への一律の現金給付は、新型コロナウイルスの影響に苦しんでいる人たちの救いにはなりません。一番困っているのは、旅館などの観光業、飲食店、映画館やコンサートなど人を集めて楽しませる商売です。そこに客足が途絶えてしまったのは、客にお金がないからではありません。病気に罹るのが心配だからです。また、工場の生産ラインが止まってしまった原因は、部品の供給が滞っているからです。したがって、国民に現金を給付しても、客足や部品供給は回復せず、資金繰りの行き詰った人たちを救うことにはなりません。

 国民全体への現金給付ではなく、これらの、新型コロナの影響で本当に困っている人たちに的を絞って対策をとるべきです。大企業の救済は無用。中小零細、個人事業主を対象にして、例えば、簡便・迅速な繋ぎ資金の融資でまずは急場をしのげるようにした上で、昨年(または過去数年)の同時期の売り上げ・利益と今年の実績を比較して、減少分の一定割合を現金給付するといった方策はどうでしょうか。
 個別にはさまざまなケースがあるでしょうから、きめ細かく設計せねばなりませんが、ともあれ、ながらくビジネスを続けてきた人たちが、一時の流行り病のために廃業に追い込まれるなら、経営者や労働者といった当事者のみならず、消費者にとっても大きな損失です。そうならないように、実効性のある対策をとらねばなりません。

 苦しんでいる人たちの救済にはならないのに、自民党は、国民一般への現金給付を新型コロナウイルス対策としてやろうとしています。これは、新型コロナウイルスを口実にして、国民の歓心を買おうとしているのだと思います。選挙にむけた思惑でしょう。極めて大規模な買収行為です。しかも、税金を使った…。福祉を削る時には財政赤字を喧伝するのに、自分たちの選挙のためには、的外れで効果のない(選挙対策にはなる)税金の無駄遣いをするのです。

 今、新型コロナウイルスに悪乗りをして、わざと物議をかもすような施策を打ち出し、やっている風を装う政治家が湧いています。不合理・的外れな思い付きですが、それを指摘・批判されると、「やる気のない評論家はでしゃばるな」と威圧します。自民党が検討している国民への現金給付も、その類だと考えます。

 以上が今回の『そが逸郎通信』の主題です。

 ところで、国民への現金給付と言えば、ベーシック・インカム(BI)もそうです。実はわたしは、BIに大いに期待しています。今の逼塞状態を打開してくれるかもしれないと考えるからです。自民党が検討するコロナ緊急経済対策とBIとの違いについても論じておきましょう。

 BIというのは、条件をつけずにすべての個人に健康で文化的な生活に必要な現金を一律に給付するという考えです。BIの場合は、永続的定期的に現金給付するのに対して、自民党の緊急経済対策は、一回限りの単発です。BIは、一時的な今の救済だけではなく、将来にわたる見通しと安心感をもたらします。それによって、人は、自分はどう生きたいのか、じっくりと考えることが可能になります。贅沢をあきらめれば、自分らしい生きたい生き方を可能にするのがBIです。生存のために意に沿わぬ仕事に縛られることはなくなります。人の嫌がる仕事の対価は、必然的に上がることになるでしょう。勿論、贅沢な生き方をしたければ、BIを受給しながらしっかりと稼ぐことも可能です。
 一時的な「緊急」経済対策とは違い、BIは、人々の人生観、ひいては文明のあり方さえ変える、根底からの変革なのです。

 降ってわいた新型コロナウイルスのずっと前から、日本社会・日本経済は長期的・構造的な問題に陥っていました。
 昨年10~12月の実質GDP成長率は、消費税増税によって、年率にするとマイナス7.1%という惨憺たる結果になっていました。消費増税の大失敗をコロナウイルスが攪拌隠ぺいしたといえます。
 そもそもそれ以前から、株価ばかりが吊り上げられ、「穏やかな景気拡大」と喧伝されながら、実質賃金はマイナス、国民の購買力は失われて内需はやせ細っていました。非正規雇用が当たり前になり、年金もあてにできず(麻生氏の2000万円発言)、将来が見通せない若者は結婚など自分事とは思えない状況に置かれ、その結果、少子化はますます進み、人口減少によって経済は一層縮小するという悪循環に陥っています。これは、ひょっとすると資本主義経済制度の行き詰まりであり、人類の文明史な隘路に一番先に踏み込んでいるのかもしれません。

 これを脱却して、文明史の次の時代を拓く可能性があるのがBIです。人々の人生観・労働観も一変させる根本的な変革になります。それだけに、拙速に実行すればどのような副作用があるか分からず、慎重な制度設計が必要です。(不十分な金額のBIを口実に生存が保障されたとして、福利厚生や福祉、セーフティネットをなくすことを目論む輩もいます。)

 わたしは、自民党が検討している新型コロナ対策緊急経済対策の現金給付に反対し、BIの可能性には、期待しています。

 (BIについては、『ベーシック・インカムは妙案かも』http://mujou-muga-engi.com/b-income/ をご覧ください。)

2020年3月22日 立憲民主党長野県第5区総支部長 そが逸郎

*****

◆ そが逸郎通信 第11号 3/27

 <新型コロナに対応する生活保障私案 政府通貨+ベーシックインカム的現金給付>

 前々9号(3/22)の新型コロナウイルス緊急経済対策に対する考えに、3通ほど返信を頂きました。どれも賛同のメールでしたが、同時に非正規雇用の皆さんを心配する言葉もありました。

 わたし自身、9号を発信した後、考えが不十分だったと反省していました。事業継続だけを念頭にして、雇い止めされた非正規雇用の方や、不幸にして事業をたたまねばならなくなった経営者やその被雇用者の方々の暮らしをどう支えるか、考えを巡らせていなかったのです。

 今回の大規模な経済縮退に対応する生活支援を、煩雑な手続きの間を置かず迅速に実行するには、条件をつけない国民一律の現金給付は、有効な方法かもしれません。
 折しも、アメリカ上院では昨日、大人一人に1200ドル(≒15万円)、子供には500ドルの現金給付を可決した、との報道があります。
 年収7万5000ドル以下という条件があるようですが、そういった条件の審査に時間がとられるなら、無条件にしてもいいでしょう。コロナ禍が収まった後、とるべきところからその分の税金を集めればよいのです。すべての個人に等しく給付して、とるべきところから税金を徴収するというベーシックインカムの考え方です。

 MMT(現代貨幣理論)の考えからすれば、コロナ対策給付を後から税金で回収する必要も、必ずしもないのかもしれません。また、もし国債を積み上げることの悪影響が危惧されるなら、思い切って政府通貨を必要額発行することも検討できるでしょう。
 (政府が国債を発行して日銀から日本銀行券を利子付きで借り受けるのではなく、政府みずからが通貨を発行するのが政府通貨。現行の日本のお金は、お札は日銀券だが、硬貨は政府通貨。政府通貨の素材や額について縛りはない。政府通貨を発行しても、だれかに返す必要はないし、当然金利も発生しない。)

 勿論、現金給付であれ、実行するにはクリアすべきさまざまな課題があります。窓口で現金を渡すのか、口座に振り込むのか、口座番号の登録をどうするか、住民票のある役場に行かねばならないのか、対象者は日本国籍に限定せず住民票のある人全員にすることでいいいか、などなど。
 しかし、これらはどんな支援策でも工夫して対処しなければいけないことです。やらない理由にはできません。

 今回のコロナ禍からなんとしても暮らしを守らねばなりません。そして、そのために智慧を絞った結果として、コロナ禍以前から現れていた現代資本主義経済システムの行き詰まりを克服する新たな仕組みのヒントが見つからるなら、災い転じて福となる、です。

 (MMT、政府通貨(≒公共貨幣)については、拙ブログ https://itsuro-soga.com/2019/12/21/ を参照ください。)

2020年3月27日 立憲民主党長野県第5区総支部長 そが逸郎

なぜ辺野古の新基地建設をやめられないのか?

思い付きで始めた誤りを訂正できない政治の危うさ

 沖縄平和市民連絡会の北上田毅さんのお話を聞きました。(2/23松本市あがたの森文化会館)

 北上田さんは、土木技術の専門家です。辺野古の浜のテントには、北上田さんの他にも海中写真や様々な専門分野のオヤジ集団が、梁山泊のごとく集っておられ、わたしも弁当をいっしょに頂いたり、炭火にあたりながら話を聞いたりしました。実は、北上田さんは、わたしの大学のクラブの先輩でもあります。(京大山岳部。わたしは一年もたずに退部)

 冒頭、「安倍政権は、県民の反対の声を無視し、既成事実を積み上げることで、県民(主権者)に無力感を味わわせ諦めさせようとしている」との指摘。これは沖縄だけでなく、国会答弁にも言えることだと思いました。国民があきれはてて諦めるのを待っています。
 しかし、国民を諦めさせ無気力にさせて、どうして経済も文化も花開くでしょうか。みんなが人の顔色をうかがうことなく、のびのびと発言し行動できてこそ、活力ある社会は実現されます。政治についても、自由闊達に議論し合う風土にしていかなければ、世の中をよくしていくことはできません。そのような社会を作り上げていくことは、政治の大きな任務です。
 それとは真逆の政府に対峙するには、「勝つ方法は諦めないこと」しかありません。

 北上田さんは、辺野古の工事の問題点を次々に指摘していきました。
 汚濁が拡散している様子を撮影されるのを嫌がって、ドローンを禁止し、市民の監視の眼をふさぐ。しかし、汚濁防止のみならず、サンゴの移植も、埋め立て用の土砂の調達も、どれも決められたルールに則って問題が出ないようにちゃんとやろうとすれば、膨大な時間と手間とコストが必要になる。計画の工期では完成できない。

 しかも、マヨネーズ地盤の問題も発覚しました。マヨネーズと同程度の軟弱な地盤が、滑走路の末端付近(B27地点)に海面下90mまで堆積しているのです。これに対して防衛省は、「これは業者が自主的に行った調査で、厳密なものではなく、重視すべきではない」としています。しかし、この調査会社は米国の会社であり、調査が行われた裏には米軍側の意向が働いているのではないかと推察されます。
 現状の計画のままでは、護岸が崩壊するとの指摘もあります。また、海底の地盤改良は世界でも海面下70mの実績しかなく、90mまで届く工事は前例がありません。なんとか工事を終えて一旦完成したとしても、継続的沈下は避けられず、米軍が滑走路に要求する平坦さの基準を満たすことはできず、完成後もジャッキアップなどの維持補修工事が際限なく必要になります。

 講演を聴きながら、かねてからの疑問がわいてきました。
 いつ完成するかも分からず、できたとしても欠陥滑走路。完成後も維持に莫大な費用がかかる。補修工事ばかりしていれば、運用にも支障が出るだろう。地球温暖化による海面上昇の問題もある。にもかかわらず、辺野古新基地建設に固執するのは、安全保障に真剣でないことの証左ではないのか。
 自民党はことあるごとに「緊迫する安全保障環境に迅速な対応が必要」と主張するが、実はそれは口実に過ぎず、莫大な税金を投入する工事がだらだらと長く続けば続くほど利権も続いてうれしいのではないか。
 しかし、米軍はどう受け止めているのか。自分たちはグアムに退くから、欠陥滑走路であれ何であれ、日本政府が造りたければ勝手に造ればよい、という考えなのか。あるいは、辺野古新基地の欠陥はかえって好都合で、普天間基地を使い続ける口実にしようとしているのか。
 その旨、質問しました。

 北上田さん。
 「工事業者は確かにそうだろう。しかし、日本政府は、石垣島などに自衛隊の基地も作ろうとしており、それらがすべて利権のためで防衛は純粋に口実、ということではないだろう。米軍に関しては、防衛省はこの案件については、他の案件とは比べ物にならないほど緊密に米軍に報告し協議している。米軍がそれを要求しているのだろう。米軍も、どうでもいい、勝手にやれ、と考えている訳ではなさそうだ」との答え。

 日本政府の本当の考えも米軍の考えも腑に落とせず、もやもやしていましたが、新型コロナウイルスへの安倍政権の対応をみて、こうなのかも、と思い至りました。

 ひょっとすると、日本政府には、深い考えはないのかもしれません。長期利権にしようという考えさえない。米軍への阿諛追従かなにかで、突きつめた検討もせずに決定して、後から様々な問題が露呈したが、いまさらやり直しは体面上できないので、弥縫策を継ぎはぎしながら進むしかない。残念なことに、これが実際のところではないでしょうか。

 新型コロナウイルスのクルーズ船への対応や一斉休校の判断は、幅広く検討し、突きつめて考えた上のものではありませんでした。要は、思い付きだったのです。
 政府は、拙速な指示・命令を発出した後、それによる問題が現れ、批判の声が上がっても、邪険にしてめったに真摯には取り合いません。なおざりな対応でお茶を濁すことを繰り返すうち、問題はどんどん肥大しますが、それでも考えを改めることはできません。逆に、ますますその方向に突き進みます。間違いを認めれば、これまでやってきた過ち(例えば、辺野古の海の環境破壊)を遡って元に戻さねばならなくなるからです。

 北上田さんは、講演の冒頭で「政府は、既成事実を積み上げることで、県民を諦めさせようとしている」と指摘されました。しかし、積み上げた既成事実に縛られているのは、実は日本政府の方なのです。やがて、山積した問題がにっちもさっちもいかなくなって、破綻することになります。

 思い返せば、先の戦争でも、同様のことが繰り返されました。

 インパール作戦は、当初から兵站(物資の補給)に無理がある、という指摘がありました。しかし、牟田口司令官は、弾薬や装備を水牛などに運ばせ、いざとなればそれを食糧にするとして、これをジンギスカン作戦と豪語し、上層部を説き伏せ、作戦を強行しました。現実には、水牛に荷を負わせて山道を歩かせるのは無理なことで、しかも攻撃を受けた動物たちは驚いて遁走し、食糧のみならず、貴重な装備弾薬まで失うことになりました。前線からの補給の要請に牟田口司令官は応えることなく、現場の(精神的)努力で状況を克服することを要求し、「白骨街道」と呼ばれる悲惨な結果を生みました。
 攻撃を受ければ、動物は逃げ去ることなど、誰にでも想像できます。

 航空機による体当たり「神風」も、イメージとは異なり、与えるダメージの乏しい攻撃でした。爆弾は、ぶつかって甲板を突き破った後、艦の中で爆発するように設計されています。しかし、航空機の突入スピードは、投下した爆弾の落下速度よりずっと遅く、しかも航空機自体がクッションになるので、爆弾は艦の表面外側でしか爆発せず、艦の構造に届くダメージにはなりません。そんなことは、日本軍の中でも多くの人が分かっていたはずです。しかし、「神風」は中止されず、多くの航空機と若い命が消耗されました。

 他にも、特攻機「桜花」など、立案の時点から破綻している作戦は、たくさんあります。そもそも、中国への侵攻は、先の見通しもないまま、場当たり的、それいけどんどん的、なし崩し的に進みました。その延長として米英との戦争状態に突入したわけですが、その際にも、国力の差は認識しながら、相手の準備が整わないうちにギャフンと言わせて講和に持ち込むというラッキーなシナリオだけを想定し、うまくいかなかった場合のことはまじめに考えていませんでした。その結果、敵味方のおびただしい命に悲惨な最期をもたらし、無条件降伏に至ったのです。

 深く考えず安易に都合のいい想定で事を始め、批判に応えることなく、みずから積み上げた既成事実に縛られ、後戻りできなくなる。そして、どうしようもない状況に陥ると、努力で解決せよと現場に要求する。これは、インパール作戦でも、新型コロナウイルス対策でも、辺野古新基地問題でも同様です。辺野古の問題では、防衛省の現場職員が安倍政権や米軍から対応を押し付けられて苦労していることでしょう。しかし、破綻して被害を被るのは、政府でも政府の現場でもなく国民です。残念なことに、これは我が国政府の歴史的な傾向であるようです。

 ただし、わたしは、政府の政策は常に完璧であるべきだ、と主張するわけではありません。人間はみな凡夫です。凡夫とは、平凡な普通の人という意味であり、それは執着に基づいた反応だということです。完璧ではあり得ません。間違いを繰り返します。
 間違いを繰り返す凡夫が間違いを少なくする方策が、熟議の民主主義、すなわち、少数意見も含めて互いに批判し合い、批判から学び合って、考えを深め合うことです。多数決ではありません。執着する凡夫は、正しいものではなく、強いものに群れやすいからです。そして、批判してもらうためには、情報公開も必要です。

 これと正反対の考え方が、自民党が憲法に加えようとしている緊急事態条項です。首相が「緊急事態!」と宣言しさえすれば、権力が首相に集中し、国会が制定するのと同等の効力を持つ政令を好き勝手に発することができ、国民の権利も制限できる制度です。

 思い付きの愚策で問題を引き起こし、後戻りどころか突き進んでさらに事態を悪化させて「緊急事態」を作りだし、それを根拠にして独裁的権力を手中にする。
 愚かな凡夫に権力を集中させれば、悲惨な結末が待っています。その結果を背負わねばならないのは、権力者ではなく、普通の人たちです。

 賢い政権にするのではなく、情報公開をしてきちんと批判・議論に応じる政権に替えなければならないと考えます。

2020年3月8日  立憲民主党長野5区総支部長 そが逸郎

ゲノム編集の危険性

 昨日、『食の安全はどこへ★遺伝子組み換えとゲノム編集★河田昌東さん講演』(於:伊那市図書館、主催:「伊那谷いのちがだいじ!連絡会」)を聞きました。

 遺伝子組み換えとゲノム編集の違い、それによるゲノム編集の危険性がよく理解できたと思うので、以下ご報告します。(とは言え、素人の理解なので、文責は曽我)

*****

 遺伝子組み換えの場合は、外来遺伝子を「空気銃で打ち込むようなもの」であり、それが宿主生物の遺伝子のどこに挿入されるかはランダムで、大抵の場合、宿主生物の遺伝子を損傷し、害をもたらす。そのため、外部遺伝子を「打ち込んだ」のち、細胞を培養して、問題のないものだけを選別する必要がある。

 一方、ゲノム編集は、改変したい形質にかかわる遺伝子はどの部分かを特定したうえで、その部分を狙って、切り取り、あるいは外部遺伝子に置き換える。

 わたしは、漠然と「遺伝子組み換えが外部遺伝子を押し込むのに対して、ゲノム編集は、もとからの遺伝子の一部を切り取り、破壊するだけ?」と思っていたが、ゲノム編集でも外部遺伝子の挿入は行われ得る。一部遺伝子の破壊(ノックアウト)に比べて、外部遺伝子の挿入・置き換え(ノックイン)は法律や規則上の制約が大きいので、ノックアウトの件数が多いというだけのようだ。

 ともあれ、上記のような説明だけを聞けば、ゲノム編集に大きな危険があるとは思えないかもしれない。しかし、以下のような多くの問題がある。

 一つ目の危険は、オフターゲットの問題である。誤認によって狙っていない遺伝子が破壊されてしまうことだ。狙った部分を、塩基配列(4種類の塩基がどういう順番で並んでいるか)によって見分けて切り取るのだが、別の似た塩基配列部分も誤認され破壊されてしまうことが排除できない。当然その部分が関わる形質に影響がでる。

 二つ目の危険は、改変した遺伝子部分が、変更しようとした形質だけではなく、別の働きにも関与していた場合に、予想していなかった思いがけない影響が現れる可能性だ。ゲノム編集は、ターゲットととして狙う部分がひとつの機能しかもたないことを前提にしている。しかし、複数の異なる働きに関与している場合も少なくないのである。

 三つめは、マーカー遺伝子がもたらす危険だ。特に抗生物質耐性が拡散することが危惧されている。
 少し詳しい説明がいる。
 ゲノム編集技術は、四つの要素で構成される。DNAを切断するDNA分解酵素(Cas9と呼ばれるものが使われる)。どの部分の塩基配列を切断するかを識別するガイドRNA。ゲノム編集が成功したかどうかを判別するためのマーカー遺伝子。そして、それらを対象細胞の核に運ぶベクター(ウイルスなどが使われる)である。ベクターを対象となる細胞に感染させて、他の三つの要素を細胞の核に入れる。(先に触れたオフターゲットの切断は、ガイドRNAが似た塩基配列を誤認することによって起こる。)
 狙った部分一か所を改変するには、これら四つのセットが一組あれば済むというわけではない。現実には10万から1000万、場合によってはそれ以上がひとつの細胞核に投入される。多ければ多いほどオフターゲットの危険は増す。そして、それだけ投入してもなお、改変が100%成功するわけではない。そこでうまく行った細胞を分別するために使われるのがマーカー遺伝子だ。クラゲの発光たんぱく質の遺伝子や抗生物質耐性遺伝子が使われる。編集作業後、光る細胞や抗生物質をかけても死なない細胞は、ゲノム編集が成功したと判別できる。

 つまり、「外部遺伝子は挿入しない、遺伝の一部を切り取るだけ」と称するノックアウトのゲノム編集においても、外部遺伝子は使われるのだ。ゲノム編集作業で持ち込まれる膨大な数の外部遺伝子は、戻し交配によって取り除けるとされるが、多くの時間と手間が必要な作業であり、本当に徹底されるかどうか疑わしい。
 既に、遺伝子組み換えで害虫抵抗性(虫が齧ると死んでしまう形質)を与えられた作物の場合、組み換えが成功したかどうかを判定するために、抗生物質抵抗性の遺伝子がマーカーとして使われている。害虫抵抗性の飼料を与えられた家畜において、腸内細菌が抗生物質耐性になっていると報告されている。飼料からマーカーの抗生物質耐性遺伝子が腸内細菌に取り込まれたのだ(遺伝子の水平伝達)。人間の場合も同様のことが起こる。それらは糞便にまざって排泄される。
 今、抗生物質の安易な使用が広く行われており、環境中に抗生物質耐性の遺伝子が増えている。それを一層加速するのが、遺伝子組み換えであり、ゲノム編集だ。抗生物質の効かない病気が蔓延することが危惧される。

 また、別の危険として、Cas9によるアレルギーも指摘されている。Cas9は、黄色ブドウ状球菌などの細菌も持っており、人類はそれらに日常的に接しているので、Cas9に対する免疫抗体を持っている人が多い(米国人の場合6~7割)。Cas9が多く残留した食材がアレルギーを起こす危険もある。

 河田さんは、講演の最後を提言で締めくくられた。ゲノム編集についての安全審査を厳格化すること。そして、きちんとした表示を義務づけ、消費者の選択する権利を守ることである。供給側が、遺伝子組み換えの表示によって遺伝子組み換え作物が普及しないことに懲りたので、ゲノム編集については、表示をしなくてよいようにしようと画策しているそうだ。消費者・市民は、法制度の動向に注視し、おかしな動きには厳しく指弾し、対抗せねばならない。
 それはそのとおりだ。しかし、わたしは、安全審査の厳格化と表示義務化に加えて、そもそもすくなくとも食材に関しては、ゲノム編集を禁止する法律を定めるべきではないかと思う。その旨質問したが、回答は、「安倍政権は、ゲノム編集を「成長戦略のど真ん中」と位置づけ、外国との競争に突き進もうとしている。この状況において、その可能性はほとんどない」とのこと。
 しかし、講演の冒頭、「ゲノム編集は原発と同じ」との発言もあった。新技術がもたらすかもしれない経済効果に目がくらみ、安全性を忘れている、という意味だ。であるなら、安倍政権に替わる日本政府が、内外の市民と連携して、ゲノム編集技術の乱用に対してタガをはめるべく世界のリーダーシップを執るべきだと思う。

 また、質疑では、学校給食のオーガニック化の取り組みも話題になった。
 安田節子さんや山田正彦さんから教えて頂いたことも総合すると、米国などでは、食材をオーガニックにすることで、子どもの健康(特に、情緒面など)が改善されたとの報告があり、オーガニック食材の普及が進んでいる。(確か安田さんからお聞きした話では、遺伝子組み換え作物が子どもの腸壁を傷つけ、完全に消化されきっていない食材が、まだ分子数の大きい状態で血管の中に漏れ出すことが原因ではないかと案じられている、ということだった。)学校給食をオーガニック化することで、子どもの健康が守られる。同時に、オーガニック食材の消費の基盤が生み出されることで、有機農業に取り組もうとする志の高い農家が増え、ひいては学校給食以外にもオーガニック食材が広がっていくだろう。波及効果は大きいと期待できる。
 日本の現状は、基礎自治体(市町村)レベルの取り組みが始まっている段階だが、韓国などでは国レベルでの模索が進んでいる。例えば、学校給食のオーガニック化に対して国が市町村を支援する制度をつくれば、この取り組みは一挙に普及するかもしれない。

 ゲノム編集技術への規制をはじめ食の安全を守るためのルール強化と学校給食オーガニック化支援とによって、大きな成果が上げられるのではないだろうか。

 今回の講演にお誘い頂いた「伊那谷いのちがだいじ!連絡会」に感謝します。

* * * * *

 これに関連した内容の講演が、高森町やすらぎ荘であります。『食の安全とタネのはなし4』2月29日(土)13時半~。印鑰智哉さん、安田節子さんがスピーカー。

 同日、同時刻に、立憲民主党長野県連代表の杉尾秀哉参議院議員、辻元清美衆議院議員の話を聞ける「新春の集い」を、飯田市エスバードで開催します。わたしも登壇して、2020年代の10年間でどういう社会を作り上げていくべきか発言します。どうぞご来場ください。

2020,2,9  そが逸郎立憲民主党長野5区総支部長

新年の街頭演説で思ったこと

 新年の街頭演説をしました。 4日は、上伊那で7か所。5日は、スタートが遅くなったので、下伊那北部で2か所。激励も頂きましたが、お叱りもありました。
 「野党はなにをやっている! しっかりしろ! あんなことを許しておいていいのか!」
 怒りや苛立ちが、沸々と湧き始めているように思います。
 一方、昨年末頃から新たな兆候も感じます。テレビの報道ぶりにわずかな変化が見えるのです。
 報道の重要な任務は、世の中の問題点を提示することでしょう。提示された問題をみんなで考え、間違いがあれば正し、課題を克服することで、世の中を良くしていくことができる。そのきっかけを提供するのが、報道の仕事です。
 にもかかわらず、昨今の大手マスコミの報道は、政権の問題については切先が鈍い状況でした。組織としてしがらみに縛られている一面もあるのでしょう。忸怩たる思いを抱えながら仕事をしてきた記者もたくさんいた筈です。
 ところが、ようやくわずかながら風向きが変わってきました。取り上げるべき問題はきちんと伝えねば、という思いが少し回復してきたと感じます。
 また、官僚の中でも、さすがに我慢しきれなくなって、矜持を持って世の中のためによい仕事をしようと、思いを新たにする人は確実におられるそうです。新年にあたって、恐れずにちゃんとした仕事をするぞと、改めて決意した官僚の皆さんもいるに違いありません。
 怒りや苛立ちが、主権者の中にあちこち広がり始めています。マスコミも官僚も変わり始めました。がんじがらめのしがらみも、緩みだせばほどけるのは案外早いものです。安倍政権の終わりは近い。今年かもしれません。政権交代も、思うほど遠くはないのではないでしょうか。
 そうなると野党間の協議が重要になってきます。膝を突き合わせた熟議によって考えを深いところで一致させておかないと、失敗を繰り返すことになります。安全保障を含む米国との関係の持ち方、原発に替わるエネルギー政策など、議論すべきテーマは多い。
 しかし、喫緊の課題は、税金の集め方、使い方ではないでしょうか。
 今、安倍政権下では、消費税のみならず、教育や福祉など重い国民負担を課せられ、多くの人が目先の暮らしに追われています。若い人たちも、自分一人が今を生きることで精一杯。それこそが、少子化の根本原因です。
 税金の集め方、使い方を逆転せねばなりません。今の、低所得層からも容赦なく徴収しながら、政権と関係の深い一部のお友達や大企業、外国資本を優遇するやり方を反転し、今甘やかされている「勝ち組」からしっかりと徴収して、みんなの暮らしのために税金を使うのです。
 日々の暮らしにゆとりを取り戻すこと。人々の購買力を回復し、内需を高めて、誰もが実感できる景気にせねばなりません。そうなってこそ、みんなが、のびのびと、それぞれの希望に向かって進める活力ある社会を実現することができます。
 取り急ぎさしあたっては、きちんと情報公開をし、はぐらかさず真摯に議論をするルールを定めるだけでも、税金のおかしな使い方はできなくなり、みんなの暮らしに役立つ使い方になるはずです。
 今年は、2020年代の decade(10年間)の始まりの年。これまでの沈滞に別れを告げ、誰もがのびのびとおおらかに暮らせる世の中をこの10年で実現するために、みんなで一歩を踏み出したいと思います。

2020年1月7日 立憲民主党長野5区総支部長 そが逸郎

野党共闘 消費税 れいわ新選組/頂いたご意見への返信

前略

 昨日、お許し頂いた場所にポスターを掲示しました。大変ありがたく、感謝申し上げます。
 ついでの折に見て頂いて、もし問題ありましたら、ご連絡ください。やり直します。

 頂戴したお手紙、拝読しました。
 野党がなかなかうまく協調できないのは、ひとつには、自分の考えへのこだわりのせいでしょうが、単に理論上の相違よりも、自分(たち)の都合やメンツによる部分が大きいような気がします。
 世の中をよりよくするには、みんなにとってどうがいいのか? それをしっかり議論すれば、一致はできなくても相互理解は深まるだろうし、なんとか折り合うこともできるはずだと思います。ヨーロッパの大陸諸国の多くが、選挙後に政策協議をして連立内閣を組む際のやり方から学べるところがあるのではないかと思います。

 次に、税金の集め方と使い方について。

 まず消費税は、やはり、なくしていくべきだと思います。所得が少なくて、得られた所得のほとんどすべてを生存のために費やさねばならない(消費のすべてが生存のため)人と、楽しみのためにも消費できる余裕のある人、消費のみならず貯蓄のできる人、さらにはお金を増やすためにお金を使える(投資のできる)人がいます。前者程、消費税の負担感は重いでしょう。生存のためだけに得られた所得のすべてを使わざるを得ない人にとって、消費税は、人頭税に等しいものだと思います。そして、そういう人が増えています。

 また、消費税は、GDPの6割と言われる個人消費の足を引っ張ることになるので、景気に悪影響を与えます。
 今回、消費税を10%にして今後は安泰かと言えば、少子高齢化が進む中、景気が上向いて税収が増えなければ、国家財政を守るため、また再び国民負担を増やし、福祉を削らねばならないと言われています。
 ところが、消費税は、国民の購買力を削ることなので、景気には悪影響をもたらします。

 それに、少子化の真の原因も、若者が自分一人の生存だけで精一杯という状況に追い込まれていることにあると思います。経済的ゆとりと将来の安心感がなければ、好きな人ができても、幸せな家庭を築いて二人で夢に向かって、かわいい子供も育てようという気持ちにはなれません。

 消費税は、景気にも少子化にも悪影響を及ぼします。目先の国家財政悪化にブレーキを掛けたいという目的で、長期的にはまったく逆の効果をもたらすちぐはぐな税制が消費税です。

 消費税ではない税を考えねばなりません。ほとんど税を払っていない大企業が多々あるのですから、法人税率や法人税の抜け道となる税控除についてしっかり検証せねばならないと思います。株売買に伴う利益が分離課税20%とされ、累進課税を免れていることも再検討が必要です。グローバル企業への課税の仕組みをつくることや、トービン税といった新たな税も考えられます。

 税金の使い方も、若者が将来に展望を持てるようにせねばなりませんし、必要な福祉を第一優先にしてそれを削るようなことがあってはならないと考えます。

 しかし、消費税を上げずに(逆に下げていきつつ)暮らしを支えて、「今のゆとりと未来の安心」を感じてもらえるようにするには、直近では、財政赤字は避けられないのではないかと思います。それを肯定してくれる理論としてMMTは一部から脚光を浴びているのだと思います。
 しかし、政府債務を野放図に拡大することには、不安があります。また、自民党は、お友達優遇が徹底しており、自民党政権下で財政規律を緩めれば、暮らしを支えることではなく、縁故資本主義、つまりお友達だけが得をすることになるでしょう。
 公共貨幣システムも、公共貨幣をどこにどう使うかにはルールがなく、それは政治の判断であることは、MMTと同様です。ただ、政府債務もゼロにできるという主張には、魅力を感じます。
 (公共貨幣については、このページを下にスクロールして頂くと、記事があります。)

 公共貨幣は、MMTよりもさらにハードルが高いと思います。現時点では、思考実験の域を超えていないでしょう。しかし、わたしの読んだ本の著者、山口薫さんひとりの思い付きではなく、100%マネーをはじめ、この本の主張を構成する理論は、傍流であったとはいえ、それなりに長い歴史があるようです。
 ともかく、「国家税制の赤字が積みあがっているから、消費税増税が必要だ、福祉は切り下げねばならない」という洗脳に対抗し、広い視野で考えることを助けてくれるが故に、公共貨幣はおもしろいと思います。
 (金利のないシステムになったら銀行のビジネスモデルはどうかわるのか、それについても著者は書いています。それを検証する能力もゆとりもわたしにはありませんが、読んで頂いてまたご感想をお聞かせくだされば有難いです。)

 次に、れいわ新選組をどう評価するか。確かにポピュリズムかもしれません。安冨歩さんも言っておられましたが、れいわ新選組は、山本太郎ひとりの頑張りで成り立っています。組織として成り立っているとは言い難いし、ましてや、今すぐに政権を担いうる組織とはとても言えない。しかし、そういった評価で切り捨てることはできません。

 多くの人が安倍政権のやり方に怒りや苛立ちを感じているのに、政権は続いています。その理由は、怒りや苛立ちが広がっていないからでしょう。

 「政権争いなんかに関わっていられない」そんな言葉を耳にしました。そこから推察するに、「自分たちの暮らしとはかかわりのないところで一部の人たちが争っている。そんなことには関係なく、自分たちは自分たちの暮らしに取り組む」、そういう気持ちがこの言葉の後ろにあると思います。しかし、本当は、自分たちの暮らしのためにこそ、政治はあるはずです。

 政党や政治家は、ポケモンのようなものではないでしょうか。主権者は、ポケモン・トレーナー。主権者は、自分の考えに沿った政党(ポケモン)を調教し、鍛えて、闘わせる。これが本来の主権者と政党・政治家の関係ではないでしょうか。であるのに、「自分たちの暮らしとは関係のないところで政党や政治家は権力争いをしている、勝手にやってろ」と思われています。その結果が、投票率の低さです。
 低投票率の中、政権と縁をつなぐことで得られる旨味(モリ・カケのような利権、女性を暴行しても握りつぶしてもらえるとか、花見に招待される、とか、「オレはXX先生と懇意だ」といって大きな顔ができるとか)を知る人たちが選挙に熱心に取り組んで、小選挙区の効果もあって、支持率はさほどでもない自民党が多くの議席を獲得しています。そして、その人たちに都合のいい、法律や制度や基準を作っていく。放射能の安全基準や残留農薬基準がまさにそうです。消費税増税もそう。そのようにして政治や選挙に関心のない人たちが割を食わされる。

 この状況をどう改めていくか、とても大きな問題だと思います。「主権者よ。自覚しろ。しっかりしろ」と言えば、上から目線です。主権者も政党も、身もだえしながら答えを探さねばならない。れいわ新選組は、そんな身もだえのひとつではないでしょうか。
 れいわ新選組の取り組みに注目して、学ぶべきと事は学ばねばならないと思っています。政治を自分事として感じ、自分でも動こうとする主権者の動きを引き出し、それに呼応していくれいわ新選組の能力は、うらやましいと感じます。

 また是非ご意見お聞かせいただければ嬉しいです。

 草々

****様

2019,12,25        曽我逸郎

公共貨幣 経済・財政の視野を広げてみる

 『公共貨幣』(山口薫著・東洋経済新報社)を読んだ。9月2日に衆議院第一議員会館で行われたフォーラムに参加した際、購入したものだ。今のシステムとは非常に異なる考え方が、具体的なシミュレーションとともに述べられており、頭の中の枠組みが大いに拡大され、期待のもてる可能性を知ることができた。
 まだ未消化で、文章にするのは早すぎるかと何度も思ったが、とりあえずまとめてみる。ご批判、間違いのご指摘を頂きたい。
 (著者、山口薫氏は、カリフォルニア大学バークレー校で経済学博士を取得後、米国の複数の大学、日本の大学で教鞭をとり、現在はトルコ国立アンカラ社会科学大学専任教授)

◆ 今、国家財政の赤字累積が問題とされ、それに対処するためには、国民負担を増やし、福祉を削るほかないと喧伝されている。
 しかし、国家財政悪化のしりぬぐいを国民に押し付けるのは、理不尽だ。おまけに消費税増税や保険料アップ等によって国民の購買力は失われ、その結果経済は収縮し、かえって税収は落ち込む。財政は、持ち直すどころか、さらに悪化するだろう。

 雪隠詰めのこのような状況をなんとか打開せねばならない。そこで、新しく反緊縮の考え方が提出されている。例えば、最近話題になっているMMT(現代貨幣理論)だ。

 聞きかじりを繋ぎ合わせただけなので、間違いがあれば指摘いただきたいが、公共貨幣を考える前段として簡単に紹介しよう。MMTは、こういう考えだ。

>>>>
 金融政策で手を尽くしても、今の経済状況では借り手が足りないので、お金が市中に出回らず、経済は勢いを取り戻せない。金融政策でお金が増えることを期待するのではなく、赤字国債をおそれず政府が借り手となって財政出動し、直接市中にお金を供給すべきである。
 自国通貨を発行する政府は、どれだけ赤字が累積しても財政破綻はしないから、ハイパーインフレにはならないようインフレ率には気をつけつつ、必要な財政支出は赤字国債を発行して行うべきだ。こういう考えである。
<<<<

 MMTは、財政規律は、歳入を基準にするのではなく、インフレ率で考えるべきだ、と主張する。税は、必要な事業を行うための財源確保の手段ではもはやなく、お金が多すぎるところからお金を回収する手段という位置づけになる。

 MMTが主張の正しさの証拠に挙げるのは、皮肉なことに日本だ。日本の債務残高の対GDP比率は、200%を超えており世界で最も高い。その状況でなお、マイナス金利や異次元量的緩和などあらゆる手を尽くしたにもかかわらず、2%のインフレ目標を実現できていない。MMT論者は、日本はデフレ脱却のために金融政策ばかりでなく、もっと赤字国債を発行して財政出動すべきだと主張する。
 (自民党にも最近これに同調する議員が現れている。しかし、安倍政権下で反緊縮を行えば、ますますお友達ばかりを潤し、大企業に内部留保として(海外のタックスヘイブンに)お金が死蔵されることにしかならない。国民みんなのために正しくお金を使うまっとうな政権にしてからでなければ、この政策は百害あって一利なしである。)

◆ 『公共貨幣』の主張は、MMTとは異なる。
 一冊読んだだけで突っ込んだことを書くのはリスキーだが、自分の理解を整理するためにも、まとめてみたい。

 公共貨幣は、MMTよりradicalだと感じる。radical とは、より根底からの変革という意味だ。
 MMTは、中央銀行や国債の発行、民間銀行による信用創造などを、現行のまま前提としているのではないだろうか。
 一方、公共貨幣の考えは、それらすべてを否定している。利息という考えも拒否してる。借金にも預金にも利子はつかない。
 公共貨幣がMMTよりradicalだということは理解して頂けるだろう。

 公共貨幣という考えが目指すところは、三つある。
 ◎ ひとつは、好況・不況、バブル・恐慌といった、景気の波を鎮めること。バブルの時に巡り合えば贅沢三昧で、不況の時代に当たれば悲惨というのでは、不公平だ。
 ◎ 次に、政府債務(累積財政赤字)をなくすこと。
 ◎ 三つめは、グローバル金融資本の経済支配に対抗すること、である。
 一つずつ順番に見ていこう。

◆ まず、景気の波を鎮めることについては、預金準備率を100%にして民間銀行の信用創造をなくす、とする。

 現在の制度では、市中銀行は、預かった預金のうち、預金準備率として定められた一定の割合を中央銀行(日本なら日銀)に預けなければならない。その残りは、別の個人や法人に貸し出すことができる。当然金利をつけてだ。預金準備率は、金融機関の種類や、預金の種類、預金残高の規模によってまちまちだが、今、日銀のHPで調べると、1.3~0.05%である。逆に言えば、預金の98.7~99.95%は、他に貸し付けることができる。貸し出しと返済受け入れを繰り返すことで預金は増えていき、預金準備率を1%とすれば、結果として最初に預かった預金の99倍の貸し出しができることになる。その分だけ、世の中に出回るお金の量が増える。これが信用創造だ。
 景気が過熱してバブルになれば、モノの値段はどんどんあがっていくので、人々は借金をしても投資をして儲けようとする。貸出量は増加し、市中にお金は溢れ、さらに景気は過熱する。逆に、景気が悪くなれば、借金をして投資したのに赤字になり、さらに利息もとられるから、人々は借入金を返済し、その結果世の中からみるみるお金が減っていく。景気はますます悪くなる。つまり、民間銀行による信用創造の仕組みは、景気のブレをさらに激しくするのだ。

 これを避けるために、公共貨幣論は、預金準備率を100%にして、銀行による信用創造をなくすべきだ、と主張する。しかし、これには反論があるだろう。活発な経済活動のためには信用創造は不可欠だ、という意見だ。これに対して公共貨幣論は、経済を不安定化させる信用創造に代えて、政府が公共貨幣を必要とされる量だけ発行すればよいと返答する。

 公共貨幣は、国債ではない。中央銀行に代わって、国が発行する利子のつかないお金である。国は、自分自身でお金を発行できるのだから、法的にいえば民間企業である中央銀行から利子を払ってお金を借りる必然性はない、と著者はいう。
 中央銀行による貨幣発行はやめて、政府が公共貨幣を発行する。貨幣発行以外の中央銀行の必要な業務は、中央銀行を解体し政府内に再編した公共貨幣庫が引き継ぐ、としている。

 福祉や教育やインフラ整備など、必要な事業は、国が公共貨幣を発行して賄う。勿論、野放図な歳出は許されない。 新たに設置される公共貨幣委員会が、公共貨幣の発行量を決める。 物価変動を2%以内(対前年?)におさめられなかった担当大臣は辞任する、と著者は設定している。(失業率やジニ係数も、辞任判定の指標にすべきかもしれない。統計数字を改ざんする自民党政権では、このタガは意味をなさないが…)
 公共貨幣制度においては、MMT同様に歳出は、歳入に縛られない。税は、必要な歳入を得るための手段ではなく、世の中のお金が多すぎるとき、またはお金がどこかに偏っているとき、余分なお金を回収するための手段になる。
 景気のブレを拡大する民間銀行信用創造がなくなれば、物価の安定や失業率を抑えることも、かなり容易くなるだろう。話題のAIも、物価や失業率の動向を予測するのに役立つかもしれない。ともあれ、景気任せではなく、公共貨幣制度では、人(政府の担当セクション)によるコントロールの重みが増す。お金の量が、人々の欲望のままに膨張したり、人々の恐怖のままに縮退したりするのにまかせるのではなく、物価変動が2%の巾に収まるようにコントロールするのだ。

 ただし、物価や失業率を指標にして公共貨幣の発行総量をコントロールしたとしても、それをどんな目的でどこにどう投入するかは、重要な政治テーマになる。軍備拡張、お友達の事業への投入、産業振興、インフラ、教育、医療、福祉、、、。要するに、政治がなにを考えてなにを重視するかが、今まで同様、あるいは今まで以上に問われることになる。

◆ 次に、政府債務、累積赤字をなくすことについては、発行済みの国債を公共貨幣に置き換えていくことで可能だという。

 現行の債務貨幣制度で、赤字国債を発行すれば、利付きの債務として積みあがっていく。国は、利子分の返済だけでも、毎年巨額の支払いをしなければならない。利子の分だけ歳入が食われ、必要な事業さえ削らねばならなくなる。現在の状況だ。これを脱しようとすれば、緊縮財政で大幅な歳出削減(福祉の切り捨てなど)をし、大幅な増税も必要となる。それによって国家財政は健全化されても、国民生活と経済は破綻する。
 それに対して、利子のつかない公共貨幣を政府自身が発行する仕組みであれば、副作用を引き起こさないまま数十年で国債の償還は終えられると著者はシミュレートしている。

◆ グローバル金融資本による世界経済支配についても、公共貨幣はそれに対抗する手段になると主張している。

 金融資本が支配を拡げる際の手段は、ふたつある。利息によって富を吸い取ること、そして株式所有による支配だ。

 まず利息について考えるため、投資の場合と比べれば、投資の場合、投資した事業がうまくいかなければ、リターンはない。リターンのみならず投資した分も失う可能性がある。それに対して、貸し出しの場合は、相手の事業が失敗したとしても元本と利息を請求できる。万一倒産に至っても担保を取っているから、貸し手は損をしない。
 勿論金融機関もいつも安泰というわけではない。欲のまま突っ走って、リーマン・ショックのような問題も引き起こした。ところが、窮地に陥った銀行は、「大きすぎてつぶせない」という理由で、米国の連邦準備制度から巨額の融資を受けて救済された。救済された20の銀行の内の半数は、米国の銀行ではない。にもかかわらず、米国連邦準備制度によって救済された。グローバル金融資本の頂点のネットワークが、人的にも資本的にも強固に結びついていることの証であろう。
 それに対して、「大きすぎない」一般の事業者は、不況期の利息の支払いが足かせとなって倒産に至るケースが多い。利息の支払いが、企業経営への圧迫となって、途上国における児童労働のような劣悪な労働条件や環境破壊を生む一因になっていると著者はいう。であれば、利息による支配がなくなれば、企業倒産は減少し、倒産に伴う失業も減少するだろうし、労働条件も環境への配慮も改善される余地は広がる。

 もうひとつは株式所有による支配だ。
 極々少数のグローバル金融資本が、世界経済の非常に大きな部分を牛耳っているという研究が紹介されている(チューリッヒ工科大学、2011出版)。ピラミッドの裾野から幅広く吸い上げた利息が、ピラミッドの頂点を支えるている。また、グローバル金融資本は、不動産やメディア、物流その他、さまざまな事業領域の寡占企業を傘下におさめ、それらをうまく組み合わせて、支配の手段にしている。

 このような大きな支配力をもつグローバル金融資本に対抗することは、一国では不可能であり、世界各国が公共貨幣制度に移行しなければならない。それができれば、グローバル金融資本の外堀を埋めることができ、徐々にその支配力を衰えさせることができるという。

 しかし、グローバル金融資本の世界経済を牛耳る力を考えると、それに対抗するのは、極めて難しいことだろう。
 政府通貨の発行は、イギリスの支配から脱するためにアメリカ植民地政府が行ったし(独立戦争の原因のひとつになった)、リンカーンやケネディも行っており、けして最近の思い付きではない。ところが、リンカーンもケネディも暗殺されている。民間企業である中央銀行が債務貨幣を発行するシステムを問題にすることは、長らくタブーになっているそうだ。著者自身、日本の私立大学の職を失った。
 もっといえば、トランプ政権にせよ、安倍政権にせよ、グローバル金融資本の世界経済支配の道具になっているのではないだろうか。グローバル資本は、国家の枠を超えて世界中から利益を吸い上げ、国家の枠を超えてタックスヘイブンに利益を蓄積し、国家に税を納めない。はたしてトランプ政権や安倍政権は、この状況に物申す気があるのだろうか。

 このような状況で、グローバル金融資本に抗して、公共貨幣を実現できるのだろうか。明るい見通しは持てない。実現できたとしても、副作用はないのか、大きな混乱なく移行できるのか。著者はできるというが、今のわたしには、判断できない。

 しかし、公共貨幣という考えは、「巨額の国家債務があるから、緊縮財政だ、福祉予算カットだ、増税だ、消費税をあげねばならない」という雪隠詰めの思い込みを打破し、さまざまな可能性があるということを教えてくれた。

 ベーシック・インカムという発想も、実現可能か、副作用はないのか、確信は持てないが、魅力がある。ベーシック・インカムと公共貨幣を組み合わせれば、今の閉塞感を粉砕して、明るい社会を生み出せるのではないかと夢想する。じっくり勉強してみよう。
 <ベーシック・インカムについては、『ベーシック・インカムは妙案かも』http://mujou-muga-engi.com/b-income/ を参照>

2019,12,21     立憲民主党長野5区総支部長 そが逸郎

集落をみんなで運営するということ

 今年、わたしは、わたしの暮らす集落、柳沢地区の総代という役を仰せつかっています。回り番ですが、村長をやっている間は免除されていたので、昨年の副総代に続いて、今年は総代。一番重い役を引き受けました。
 ようやく年末の任期満了が近づき、「ああやれやれ、あと少し」という心境です。
 この間、議決機関である伍長さん方はじめ、各部長さん方、そして地区住民の皆さんのご協力を頂き、無事なんとかやってこれました。
 草刈りや水路の泥上げといった共同作業、各種お祭り、バレーボール大会や運動会、地区旅行など盛りだくさんな行事を行いました。残るのは、来年の役員体制を固めて、総会で新体制や事業報告、決算報告の承認をもらい、引継ぎをすることです。

 こうして振り返ってみると、安冨先生が講演で仰った「毎日の生活を整えること」、あるいは、先日の横浜の『「協同」が創る全国集会』で沖縄の青年が語った、「近隣の人たちとコミュニケートしながら暮らしを手作りしていくこと」は、昔から我が柳沢ではそこそこにできているのではないか、と思い至りました。あたりまえすぎて意識しないまま自然にしっかりと取り組んできたと思います。

 20年ほど前、突然移住してきた縁もゆかりもない我々家族を迎え入れてくれ、市町村合併の可否という大論争の副産物としてではあったけれど、そんなわたしを村長にしてしまったのは、中川村のおおらかさの現れに違いありません。
 しかし、中川村でなくとも、日本各地の地方に続いてきた集落は、どこだって、みんなで自分たちの地域を丁寧に育んできたのではないでしょうか。

 ただ、地方の共同体は、システムの末端として、住民を押さえつけることもあります。極端な例は、『故郷はなぜ兵士を殺したか』(一ノ瀬俊也・角川選書)に書かれている戦時中の「故郷」です。住民は、村長も、出征兵士も、戦死した兵士の母親も、本当の想いを胸の中に封印し、空気が要求する役割を演じ合って、お互いをますます追い込んでいきました。
 今でも、どの集落にも声が大きくて影響力の強い人もいるし、その逆に窮屈さや居心地の悪さを感じている人もいるでしょう。しかし、人間の集団であればそれを完全になくしてしまうことはできません。閉鎖的、抑圧的になってしまうことが時としてあるのは、田舎の弱点です。そういう危ない傾向をしっかり意識し、風通しよく、圧力を生むおかしな空気は換気しながら、みんなで自分たちの暮らしを受け継いでいくことが、とても大切なのだと思います。そのためには、地区の規約を文章化して共有するといったことも必要だし、なにより、変だなと感じることがあればそのつど、誰でも気安く「おかしい、ちょと待って」と口にできる雰囲気を育むことを心がけねばなりません。

 村長の時、敢えて物議をかもす発言をして、思ったことを言いやすい空気を拡げようと考えていました。ある程度はできたのではないかと思います。もっとできたかもしれないけれど、所詮は凡夫、凡夫としてはそこそこにやれたと思います。
 みんなが凡夫なりにそこそこ心がけること、変だなと思うことには「ちょっと待って」と声を出すこと。それが地域の風通しをよくして、ひいては、歴史を支配するシステムを徐々に根っこから変えていくことにつながるはずです。

 選挙で風を起こしてシステムのねじ曲がった枝を折ったとしても、根っこが変わらなければ、元の木阿弥になります。さらに悪くなる揺れ戻しもあるかもしれません。勿論、選挙で勝って、眼前に迫る破滅的政権の破滅的ハードランディングを防ぐことも大切ですが、それだけでは不十分です。選挙の後も考えること、観念的にならず地に足をつけて、自分といろいろな人の思いを尊重することが大切だと思います。

 まだ未消化できちんと文章化できませんでした。引き続き考えてまいります。

2019,12,7       そが逸郎

教育・学校について (安冨講演会の報告に)

 安冨歩先生の講演についてのブログ(↓下にスクロールして下さい)を読んで下さった方からメールを頂いた(残念ながら公開不可)。
 講演で「子どもを守らねばならない。学校に行かせるべきでない」と述べられたことに関して、ご自身のお子さんが不登校だったこともあって、どう考えるか、と質問を頂いた。
 以下、返信。

* * * * *

 メール頂戴しました。ありがとうございます。

 実は、わたしは、中川村長時代、教育については一切発言しないことにしてきました。教育については教育委員会の所管で、(教育についていろいろ内心で感じることはありましたが、)行政が教育に介入することは厳に慎むべきだと考えていたためです。そのため、村議会で議員さんから一般質問を受けても、答弁せず、教育長さんに答弁をお願いしていました。

 しかし、村長の職を離れて、教育についての問題意識は少し高まりました。投票率の低さや政治に対する関心の低さを実感したためです。しかし、それは、主権者教育がきちんとなされていない、といったレベルの問題ではなく、今の学校教育が、(個別にはすばらしい先生や学校があるとしても、全体では)力のある側を忖度することを保身として躾けていることが原因ではないかと感じているからです。読んで頂いたブログに書いた、「今も学校は、国民国家の都合にあわせて子どもたちを改造する役目を引きずっている」という視点に繋がります。大人の都合を先読みして、それに沿った行動をすれば評価してもらえる、ということを子どもたちに身につけさせている。安冨先生が「攻撃にさらされた子供は、迎合することで身を守ろうとするようになる」と仰ったことも、おそらく通底しています。

 一番の根本は、社会のための教育か、子どものための教育か、という点だと思います。社会(≒おとな)の都合にあうように子供を育てるのか、子どもたちの興味や関心、能力をのびのびと育むのか。

 もし、ひとつだけ社会のために身につけさせるべき能力があるなら、それは、忖度せず、堂々と批判し、貰った批判から学び、互いに議論して考えを深め合おう、という姿勢です。それ以外は、自分の興味に従ってどんどん勉強すればいい。

 勉強することは、とても面白いと思います。受験生の時もそう感じていました。数学や理科は、「へえ~へえ~そうなんだ~」の連続でした。歴史は好きではありませんでしたが、今となっては大変興味深い。切り刻んで「何年に誰それが何をした」というだけではつまらないけれど、大きな流れを知ることは、それが長ければ長いほど奥深い刺激に溢れています。安冨先生の国民国家の歴史分析もとても面白かった。(長いスパンで歴史を学ばせないのは、教育が権力に忖度しているからかもしれません。)

 ところが、今の学校では、断片的知識はさることながら、(学校だけではなく、社会全般がそうかもしれませんが、)周囲の空気を読んで、それに自分を合わせることを身体に沁み込まさせている。授業中は先生の意向を察し、休み時間はクラスメートたちの意向を察して行動しなくてはいけない。学校を卒業すれば、それなりに多様な世界が広がり、逃げ場もできますが、学校には逃げ場がないのだと思います。そんな場所で、要領よく自分をごまかせる子どもは調子を合わせることができますが、まじめで真摯に突きつめるタイプの子どもは、筋の通らぬことに簡単に納得できず、その場その場で都合よくルールを切り替えて使い分けることができずに、周囲(先生やクラスメートや、要するに学校というシステム)と軋轢が生じます。

 ただし、これは、学校というものを根本から否定するのではありません。今の学校のあり方には問題がある、ということです。安冨先生が「学校に行かせてはならない」(「行かせないほうがいい」というよりもっと強い言葉でした。)と言われるのも、「今の学校には」ということでしょう。良い学校はあり得るし、今の学校を良い学校にしていかねばなりません。

 今は先生にゆとりがなさすぎます。子どもたちと向き合う時間を十分に持って貰わねばなりません。本来の仕事ではないことで忙殺することのないように、先生の仕事の中身も精査する必要があるでしょう。子どもからも、保護者からも、地域からも敬愛される優秀な先生が必要です。そのためには、先生の待遇も良くしていかないといけない。

 『幸せのマニフェスト』という本があります。人間の幸せに大切なものはなにか、たくさんの統計、事例の相関関係を分析し考察しています。イタリアの五つ星運動が政策の参考にしていると聞いて読んでいます。
 この本は、人が幸福と感じるかどうかは、物質的・金銭的豊かさ、地位などとはほとんど関係なく、まわりの人との関係性が重要だ、と主張し、豊かな人間関係を拡げる具体的政策を提言しています。教育においても多くの提案がありますが、例えば、試験をして順位をつけ競争させることを批判しています。実際、北欧だったか、試験も成績表もない教育が行われているそうです。聞きかじっただけで、実際の様子はもっと調べてみなければいけませんが、日本でももし試験も成績表もない学校ができるなら、教育制度も根本的な発想から今とは違うものになっているはずです。試験も成績表も、子どもたちを選別して都合よく使おうとするおとなの都合から生まれたものではないでしょうか。

 しかし、最大の難関は、保護者であり世間一般の受け止めになるでしょう。試験も成績表もない学校を社会がおいそれと受け入れてくれるとは思えません。中川村でそんなことをしようとすれば、まずは議会が黙っていないでしょう。マスコミも、面白おかしく掻き立てそうです。

 しかし、こういう状況を、徐々にでも変えていくのは、○○さんのような、子どもたちのことを真剣に考える人たちです。当事者である子どもたちの力も借りて、上手にしかし大きな声をあげて頂けたらと思います。その声は、学校の問題に留まらず、深い水脈をとおって、社会や政治も変革する力になると信じます。そうしなければ、おとなの都合で廻っている社会そのものが行き詰り、窒息してしまうことでしょう。

 及ばずながらお手伝いします。頑張りましょう。

〇〇〇〇様

2019,11,24              曽我逸郎

安冨歩講演会で考えた事

 2019年11月17日、飯田市鼎文化センターで安冨歩講演会が行われた。
 主催:伊那谷市民連合、協力:南信州地域問題研究所、信州市民アクション、立憲民主党長野5区総支部、国民民主党(第5区)、日本共産党(上伊那、飯田下伊那)、社会民主党長野県連合五区支部連合、れいわ新選組、緑の党グリーンズジャパン

 安冨歩先生は、東京大学東洋文化研究所教授、経済がご専門で、日本の満州支配の金融面からの分析などで功績をあげておられる。先の参院選全国比例にれいわ新選組がら立候補されたことや女性装でも話題になった。マイケル・ジャクソン、論語など広い分野から深い洞察に基づいて社会や人間を鋭く分析しておられる。
 わたしの暮らす中川村と同じ長野県伊那谷の下伊那郡泰阜村に生活の基盤を移されたと聞いて、是非お話を伺いたいと思いお願いした。
 わたし自身の興味は、国の財政悪化を理由に国民負担を増やしサービスを削ることへのご意見や、最近話題のMMT(現代貨幣理論)など反緊縮の考えに対するご見解、ベーシックインカムのもたらす影響をご専門の不確実性の経済学からどう見るか、などお聞きしたかったが、講演のタイトルは、『次世代の国家像~経済から暮らしへ~』となった。

 話の切り出しは、わたしにとって非常にショッキングな言明で始まった。
 以下、▼と▲ではさんだ部分は安冨先生の講演内容。ただし、文責は曽我。さらにその中の(  )でくくった部分は、曽我による加筆。


 選挙に意味はない。立候補者は、「世の中をこうします」と訴えて投票を求めるが、政策は実現できない。政治家、政党、政権に社会を変革する力はない。世の中は、巨大なシステムが自律的に展開し、それによって進んでいく。トランプとオバマとはずいぶん違うように見えるかもしれないが、少し離れてみればたいした違いはない。どちらもシステムが進展していく中の歯車。システムの動きを止めよう、あるいは、方向を変えようとすれば、システムにつぶされる。民主党政権が良い例。山本太郎が首相になっても、変革しようとすればシステムにつぶされる。国民大衆に焼き殺されるかもしれない。その後には、反動でファシズム政権が生まれるかも。逆にシステムに掉さして乗っかれば、今の安倍政権のように長続きする。
 また、公約のとおりに変革をもたらしとしても、それは思いどおりの結果に結びつくものではない。南満州鉄道の権益を米国資本に売る契約を破棄した時、当時の日本人はこぞって正しい判断だと讃えたが、もしあの時売っていれば、戦争への道に進むこともなく、逆に大きな漁夫の利を得ていたかもしれない。正しい判断をしているつもりでも、本当に正しいのかどうか、その時点では分からない。
 選挙や議会などは、システムのためのガス抜き装置に過ぎない。選挙に行って投票しても、なにも変わらない。自分の暮らしが良くなりはしない。そのことをよく知ってしているから、人々は選挙に行かない。選挙に行かない人は、主権者としての大切な権利を理解せず愚かなのではなく、選挙の無意味さをよく認識しており賢明なのである。

 講演の冒頭に聴衆をひきつけるため、あえてショッキングな言い回しをされたのかもしれない。あるいは、複雑系の視点から歴史を分析すれば、そういう結論にならざるを得ないのかもしれない。
 しかし、このように言われてしまうと、すべての努力が否定され、無効化され無意味になってしまう。我々は、眼前のさまざまな問題に直面しながら、諦観し、なにもせず問題を受容するしかないのか。しかし、そんなことはできない。では、どうすればいいのか。
 2時間に及ぶ講演を聞きながら、ずっとそれを考えていた。

 講演はこのように続いた。


 現代の世界を動かしているのは、国民国家というシステム。ナポレオンが国民軍という、それまでになかった画期的かつ強力な軍隊を創設し、各国がそれに続いた。国民軍の経済的基盤として、資本主義革命が起こり、資本主義経済が始まった。人々の欲望を取り込み駆り立て競争させて前進する非常に効率の良い経済である。国民軍を機能させるために、民主主義や議会、学校制度が生み出された。これらによって、人々は自分を「国民」として捉えるようになり、戦争で国のために死ねる国民が作りだされた。学校は、使える兵士を育成するため、標準語や算数(や団体行動)を教え込んだ。(福祉もまた、兵士が後顧の憂いなく戦えるようにするために始まったと聞いた。)
 国民という意識を持たせる重要な要素が人権思想だ。これはキリスト教に根差している。日本は、欧州に1世紀遅れて、しかし、驚くべきスピードで国民国家に変貌した。だが、キリスト教に基づく人権思想は、今に至るも取り込むことはできていない。そのかわりとなっているのが立場主義である。
 14,5世紀以降、家制度が日本に暮らす人々の行動を規定していた。しかし、明治に始められた徴兵制度が家制度を崩しはじめ、高度成長期に家制度は壊滅した。国民国家は、家制度とは並立できない。家制度にとってかわったのが、立場主義。日本においては、人権思想の代わりに立場主義が国民国家を支えた。
 立場主義とは、自分の立場こそ重要で、それを守るためには、その立場に伴う役目をどんなことがあっても(死んでも)果たすという考え。これは例えば、生産ラインで働く工場労働者においてすばらしい成果を上げた。今ではオートメーションによって労働者の誇りを持てる役割は奪われているが、、。また逆に、誰かがどれほどひどい行いをした場合でも、それが立場に基づくものと認定されれば容認してしまうという悪しき傾向を日本人に与えている。
 (曽我私見:今気づいたが、立場主義は、上の立場にいる者にとってほど都合がいい。上の者の立場を下の者は知らないのだから、上の者は、自分の立場に付属する役目が複雑で重大だと思わすことができれば、どんな失敗・悪事も立場のせいにできる。また、下の立場の者を上の都合で自己犠牲に追い込むこともできる。特攻隊が典型だ。)

 中国は、1912年の辛亥革命からスタートして国民国家を作ろうと努力している。しかし、同時期すでに欧州では国民国家システムが行き詰まりにぶつかり、没落を始めた。賞味期限の終わった国民国家システムをいまさら目指すのは賢明でない。また、中国は、国民国家になるには、巨大すぎる。
 日本においても立場主義は機能しなくなった。
 欧米の国民国家や日本の立場主義が行き詰っているのは、経済的行き詰まりの結果である。(福祉や働く場を満足に提供できず、立場に付随する役割を責任をもって果たそうと思えるほどの待遇が提供されないから、国民は、自分を国民国家の一員として捉えることができなくなっている。)国民国家というシステムは、崩壊しつつある。
 (グローバル資本が各国より上にいて影響力を行使しているような現状は、国民国家システムの衰退を端的に示しているのだろう。)

 安倍政権は、崩壊しつつあるシステムに乗っかって暴走している。(岩礁に向かって崩れ落ちる波に乗るサーファーのようなものか。)なんとかソフトランディングを模索せねばならないのに、今、やろうとしているのは、スカイツリーやオリンピック、リニア新幹線、万博など、すべて経済が好調だった時代の再現だ。よき時代と同じことをすればよき時代が再来するはずと信じるのは、雨乞いと同様のまじないである。そんなことに膨大な資金を投じる我々は、雨乞いのために人や動物を犠牲として捧げた古代の人々を笑うことはできない。日本会議など安倍首相に近い人たちは、個人主義が諸悪の根源だと攻撃し、その裏返しとして家族主義を主張している。しかしこれは、すでに壊滅した家制度を復活させようとすることであり、実現できない。
 このまま安倍政権が続けば、ハードランディングするしかなかろう。それは例えば、行き詰った米国から在日米軍駐留経費負担(思いやり予算)の大幅増額を要求され、国民感情が米国から離反したけれど、非武装平和主義に徹するだけの腹はくくれず、自主軍備さらには核武装に至り、中国との(米国との)戦争が始まるといった展開もあり得る。(ハードランディングで底をぶち抜いて、日本が世界人類を滅亡させるということさえあるかもしれない。北京の蝶の羽ばたきがニューヨークに嵐を引き起こすという複雑系の考えからすれば、ましてや安倍政権では、大いにあり得る。)壊滅的ハードランディングを防止するためには、安倍政権を退陣させねばならず、それには野党共闘が必要だ。

 ずいぶん長くしゃべったが、タイトルの『暮らしへ』にまだ触れられていない。わたしたちは自分たちの足元の暮らしをもっと地に足の着いたものにすべきである、ということだ。『大草原の小さな家』のように。
 (曽我の感想:この部分、時間の関係ではしょった説明だったので、抽象的精神論的な意味か、インガルス一家のような自給的生活をすべきという主張なのか、不明。安冨先生が泰阜村に移住したことを考えれば、後者かもしれない。二十年近く前に脱サラ、Iターンして田舎暮らしを始めたわたしは先駆者だったことになる。しかし、ほとんどの人にとって自給的生活はおいそれと始められない。都会に住む人はどういう暮らしをすればよいのか。国民国家とともに崩壊しつつある資本主義経済に、欲望を煽られからめとられないようにする、ということだろうか。この点は、明確にはイメージできなかった。)
 もうひとつ、子どもを守ることが大切。教育に膨大な予算が使われているが(曽我コメント:日本の教育予算は、OECD諸国の中では実は大変少ない。対GDP比でも子供一人当たりでも最下位レベル)、学校は子どもを守る場所になっていない。子どもの貧困・空腹や虐待、いじめを見て見ぬふりをしている。(それどころか、学校は、今も国民国家の装置として、子どもたちを国家の都合に適合する人間に改造しているのではないか。)
 あらゆる攻撃から子どもを守らねばならない。学校に行かせるべきではない。攻撃にさらされた子供は、厳しい状況に遭遇した時、それを甘受し忖度し迎合することで身を守ろうとする。しっかりと守られた子どもは、難しい局面でもひるまずに克服する術を探ることができる。


 講演の内容は、概ね以上だ。軽妙さはまったく再現できていない。また、漏れや誤解があるかもしれない。ツイキャスで観ることができるので、是非ご覧になって確認して頂きたい。twitcasting.tv/inadani_shimin
 
 近代の世界を動かしてきたシステムの分析は非常に興味深かった。最後の「暮らしをきちんとすること」、「子どもを守ること」については、時間が足らず十分聞けなかったのが残念だ。
 ともあれ、最初に感じた「ではどうすればいいのか」という疑問は、最後まで残った。締めくくりに触れられた「暮らしをちゃんとすること」「子どもを守ること」が、その回答だったのかもしれない。
 しかし、システムが崩壊しつつある中、安倍政権はそのシステムに乗っかったまま、見当違いの復古主義や雨乞い政策に走り、とんでもないハードランディングに突入しつつある。「暮らしをちゃんとすること」と「子どもをまもること」で、国民国家を支えた人権思想や立場主義に代わる新たな規範を打ち立てようという主張かもしれないが、そんな時間的ゆとりはあるのだろうか。難局に恐れず立ち向かって克服策を模索できる次世代を守り育て、彼らの健闘に期待して任せればいいのだろうか。
 我々がシステムに立ち向かえないとすれば、システムが崩壊するのを待ち、それがどれほどのハードランディングだったとしても、その後でしか手を打つことはできないのだろうか? SFで描かれる破局後の世界再建の物語のように?

 勇敢に育った子どもたちが新たな世界を構築できるのなら、今の我々にもよりよい社会をつくるために努力できるのではないのか。「ちゃんとした暮らし」をして「子どもたちを守る」ことができるのなら、よりよい社会をつくろうとする政治的努力をなぜ諦めねばならないのか? 安冨先生自身、終盤では「野党共闘して安倍政権を退陣させる必要がある」と言われた。選挙にも政治にもそれなりの意味はあるのである。

 アメリカ大統領もシステムの歯車という説明があった。しかし、システムは、歯車で組み立てられた機械のように決定論的に駆動するのだろうか。そうではない筈だ。いろいろな勢力の思惑や人々の感情がせめぎあい渦を巻くところに自然現象なども折り重なり、システムは展開していく。クレオパトラの鼻が低かったら世界史は変わっていたと言われるように、世界は偶然を含めた無数の縁で動いていく。たくさんの指が乗ったコックリさんのようなものだ。我々の取り組みは、北京の蝶よりは大きな影響を世界にもたらすに違いない。それが吉と出るか凶と出るか、確かにそれは分からない。しかし、だからといって、子どもたちの貧困や、展望を持てない若者たちや、環境破壊や、グローバル資本の横暴や、国を税金の集金装置にしてそこから仲間内で甘い汁を吸うやり口や、その他たくさんの問題を放っておくことはできない。世の中をよりよくできるのかできないのかを思案しながら立ち止まっているわけにはいかない。放っておけない、なんとかしたい、その思いだ。已むに已まれぬ様々な思いがぶつかり合い収斂して世界を動かしていくのではないのか。
 昨今話題の右派ポピュリズムも、国民国家システムの行き詰まりに直面して、なんとか先祖返りで対応しようとする足掻きだろう。国民国家システムの行き詰まりの中で、さまざまな勢力が苦しみ、さまざまにもがいている。そのもがき足掻きのせめぎあいの中から、新たなシステムが生まれてくる。そのシステムが吉か凶かは分からない。だが、我々だけが冷静合理的な判断をしていると上品に澄まして、観客席から斜に構えて見下ろしているわけにはいかない。

 安冨先生や我々よりも、安倍政権を支える連中は、はるかにマメにずる賢く周到に選挙活動をしている。「桜を観る会」もその一環だ。長野5区では、伊那谷議員連盟という会をつくり、勉強会と懇親会を抱き合わせた会合を定期的に開いて、ノンポリ新人市町村議員を自分たちの側に巧妙に取り込んでいる。シロアリのアリ塚のように、利害としがらみで結びついたヒエラルキーを構築している。それを皮肉な視線で眺めながら、どういう世の中にされるのかと心配しているだけではいられない。ヒエラルキーの内側の人間だけが甘い汁(「桜を観る会」に呼んで貰えるといったレベルから莫大な利権まで)を吸って、外側の人たち(選挙に行かない人たち)は消費税や健康保険料・介護保険料等を取り立てられ、医療費は上がり福祉は削られ過度な倹約を強いられ、個人消費が低迷して経済が沈滞する、という政治は改めなければいけない。頑張らざるを得ないのである。開き直って努力するしかない。

 もうひとつ、講演を聞いて改めて感じたことがある。国民国家の一員であるという意識とか立場主義というような、必ずしも明確に言語化されていないが、広く共有される自己認識が、人々のふるまいを規定し、世の中のあり方(システム)に大きな影響を与えているということだ。これを自己パラダイムと呼ぼう。
 従来の自己パラダイム(国民意識や立場主義)が時代の変化に適合しなくなったために、システムが大きく揺らいでいる。ということは、新たに広まる自己パラダイムが、次のシステムをつくるということになる。果たしてよきシステムが生まれるのか、悪しきシステムになるのか。なんとしても良きシステムであって欲しい。

 このことについては、実は既にわたしはひとつの考えを持っている。そしてそれは、未だかつてない良きシステムを生み出すに違いないと考えている。
 それは、自分を存在としてではなく、現象として、より詳しく言えば、縁によって起こされる受動的反応として捉える、というものだ。
 勘のいい方は仏教的な響きを感じたかもしれない。そのとおり、釈尊の教えから学んだことだ。『「苦」をつくらない サピエンス(凡夫)と超克するブッダの教え』(高文研)という本に詳しく書いた。是非ご一読願いたい。http://www.koubunken.co.jp/book/b372784.html

 人(凡夫=普通の人=ホモ・サピエンス)は、自分を実体視し、かつ美化して捉え、それを周囲に認めさせ、自分でも納得して安心しようと懸命になっている。これが我執だ。これは、よき向上心となることもある。しかし、「わたし」は、立派な素晴らしい存在ではなく、縁によるそのつどそのつど起こされる反応なのだ。一瞬一瞬移り変わる現象の上に、実体的な自分を妄想してそれにどれだけ執着しても、それは執着できる対象ではない。我執は達成不可能な執着なのである。それ故、我執はますます深刻化し、我執を実現できない自分を責め、人のせいにして攻撃し、自他を苦しめることになる。
 しかし、「わたし」はさまざまな縁によってそのつど起こされる苦を生む執着の反応(凡夫)なのだ、と認識できれば、苦をつくらぬように自分に気をつけることができる。広告や、人を競わせる資本主義経済、政治的プロパガンダなどは、執着を利用して人を駆り立てる手管であると正しく認識し、警戒することもできる。同時に、他の人々も凡夫なのだと理解できれば、容認し許したうえで間違いを避ける方法をともに考えることもできる。
 自分が存在ではなく反応であることを本当に腹の底まで納得できれば、我執の愚かさが痛感され、我執はおのずと消沈し、我執に押さえ込まれていた慈悲が働き始めるのだが、そこまで行きつくことは、よほどの縁に恵まれなければ実現しない。しかし、自分が凡夫であることを認識して自分に気をつけ、人も凡夫であると認識して許すことが、人々に共有されるパラダイムになれば、そこから生まれる「システム」はとても良いものになるに違いない。凡夫がお互いみんな凡夫と認識し合って、間違いを避けつつどのように社会を運営するかを考えるようになれば、それは熟議の民主主義の新たな基盤にもなる。

 講演を聞いて、三つのレベルで努力しなければならないと再確認したした。一つは、身近な子どもたちを守り、暮らしをきちんと整えるという日常の足元の努力。二つ目は、より良い社会を目指そうと仲間とともに頑張る世俗的政治的な努力。三つ目は、私たちは存在ではなく反応だという新たな自己パラダイムを問いかけ、私たちホモ・サピエンスが自己を妄想して執着し、自他を苦しめる反応(凡夫)であることを提起し、自分に気をつけ互いに赦し合い、新たなよき社会システムが誕生するよう努力することを世界に呼び掛けることである。
 三つ目こそ、わたしが自分の一番の任務と捉えることだったが、このところ二番目に追われていた。三番目も忘れてはならない。
 再認識させて下さった安冨先生に感謝申し上げたい。

間違いの訂正、ご意見、ご批判など、お聞かせください。

2019年11月22日 立憲民主党長野県第5区総支部長 曽我逸郎

天皇制の一側面

 何事であれ、様々な視点からいろいろな評価が可能だ。天皇制についても同様である。わたしの気になっている天皇制の一面について、書いてみたい。
 天皇制は、他の人たちに言うことを聞かせたい人々に利用されがちだ、という点である。

 人徳や才能があれば、おのずと人は尊敬の念を抱く。しかし、徳も才能もないのに、人々を従わせたい人は、しばしば天皇制を利用し、天皇を笠に着て威張り散らす。
 分かりやすいのは、戦争中の軍隊だ。
 「畏れ多くも」とか「かしこくも」といった言葉が発せられた瞬間、「天皇陛下」と言う前に、そこにいる全員を直立不動にさせることができた。そのうえで、天皇から預けられた銃の手入れが悪いと言って、兵隊を殴る。しかし、その上官の立場からすれば、若い兵士は天皇から預かっている天皇の赤子ではないのか。天皇から預かった銃の手入れが悪いからと言って、天皇から預かった天皇の赤子を力いっぱい殴るのは、論理が破綻している。つまり、天皇制を心底絶対視しているのではなく、威張り散らしたいために天皇制を利用しているのだ。

 軍隊の末端の現場だけのことではない。
 そもそも中世以降、天皇家は、権力を握りたい新興勢力が勃興してくるたびに、征夷大将軍などの位を授けてお墨付きを与え、自分たちを守らせてきた。天皇から位ともに与えられた権威で抵抗勢力を押さえつけ、その権威を小分けにして自分の組織の末端まで分配することで、支配の体制を完成することができた。天皇制は、天皇制を利用して支配しようとするものに支配の権威を与え、それによって天皇制は生きながらえてきた。支配するものと天皇制とは、持ちつ持たれつなのだ。
 (このことは、マッカーサーと昭和天皇の関係にも、あてはまると思う。)

 権威による支配とは、いいかえれば空気による支配である。この支配は支配の階層を滴り落ち(トリクル・ダウンし)、軍隊であれば新兵教練の現場にまで浸透する。そこまで露骨ではないが、現代でもこの権威による支配、空気による支配は、我々の身近な様々な場面で隠然たる力を保持している。忖度させる力と言い換えることもできる。
 それを窮屈な圧迫として感じないという人がいれば、その人は、おそらく権威を利用して支配する側の末端にいるのではないだろうか。

 この天皇制の、支配する人たちにその権威を利用されやすいという性質は、民主主義にとって障害となる。
 徳も才能もないがいうことを聞かせたい人たちは、意見を言わせず、黙って従わせようとする。その時、権威による支配、空気による支配は、絶好の道具だ。人々は、みずから忖度するように仕向けられ、自分の考えではなく、支配する側の都合を慮る。民が主である民主主義ではなく、支配する側の空気が強まっていく。

 これは天皇制の本質に根差す問題なのだろうか。それとも、支配する側に利用されない、権威を笠に着た支配に転化しない、忖度のない自由な意見表明と両立する天皇制というものはあり得るのだろうか。
 ヨーロッパの王室を持つ国の事情などを参照すれば、参考になるのかもしれない。しかし、以前イギリスで短期語学研修を受けているとき、Queen Mother の話題になって、わたしが軽く、”Who is she?” と呟いたら、女性教師はすかさず人差し指を立て、”Be careful!” と制した。そこには明らかに威嚇のトーンがあった。イギリスでも王室は、人を服従させようとする権威を人にもたらすのだろう。

 ともあれ、権威による支配が天皇制に本質的に根差しているとしても、それをみずからの支配のために利用しようとする人たちの思惑を我々は常に警戒し、抵抗せねばならない。忖度させる空気の支配に負けずに、互いに言いたいことを言い合って空気を入れ換え、わたしたちの民主主義を頑強なものに育てていかなければならない。
 これこそが、憲法12条が自由及び権利の保持のため国民に要求する「不断の努力」である。

2019年11月12日            曽我逸郎

書き洩らしたこと、二つ追加(2019,11,14)
① 昭和天皇とマッカーサーの関係については、スムーズな占領支配に昭和天皇を利用したいマッカーサーの思惑と、内外の共産主義勢力からマッカーサーに自分を守らせたい昭和天皇の思惑とが一致し、その結果が、砂川事件の田中最高裁長官による統治行為論などを経て、現在の、憲法が定める国民の権利よりも、日米合同委員会の密室で結ばれた密約が優先するという状況に繋がっていると思う。
② 天皇制の問題点としては、責任を上下の間で薄めてあいまいにしてしまい、誰も責任を取らないという無責任な体制になりやすいという点もある。