香港、中国、日本の外交

香港 中国 日本の外交方針    2019,9,16

 1990年代、香港で4年ほど働いた。いささか香港に縁を持つ者として、現在の香港の状況について書いておかねばならない。
 結論めいたことを先に述べれば、中国政府には、広い視野で世界の反応を考え、長期的な視点で冷静な対応をしてもらわねばならない。結局は、それが中国にとっても利のあることだ。
 これは、凡庸な当たり前の意見かもしれない。それはわたしも同意する。ただ、米中の間に立つ日本の基本的な外交方針とも関わることであり、言葉として定着し「見える化」しておきたい。

 最初に、香港の歴史を簡単に振り返っておこう。
 言うまでもなく近現代の香港の歴史は、阿片戦争でイギリスが中国(清)から奪ったことに始まる。時々「99年間の租借が終わったので返還された」という解説を見るが、香港島と九龍半島の割譲は、永久にイギリスが分捕るという取り決めだった。99年間の租借は、九龍半島の北側の新界(ニューテリトリー)のことである。新界を返還すると、水、住居その他のインフラの必要が維持できず、香港島・九龍半島だけでは都市機能が成り立たない。だから一括返還された。
 (しかし、こうなった背景には、中国政府の巧妙な策略があったのだろうか。ジブラルタルを今もイギリスが領有していることを考えると、なぜイギリスが香港島と九龍半島を唯々諾々と(?)返還したのか、知りたくなる。)

 わたしが香港に暮らしたのは、1991年からの4年ほど。天安門事件(1986年)の記憶がまだ生々しいまま、中国への返還(1997年)が目前に迫る時期だ。香港人の同僚たちと丸いテーブルを囲んでわいわい食事していても、話題が返還に及ぶとみんな押し黙り、誰かが「まだ先だと思っていたのに、もうすぐそこまで来てしまった」とつぶやく。
 欧米系の広告会社だったので、「英語で広告などという資本主義の手先のような仕事をしている我々は、返還となればどう扱われるか分からない。一刻も早くどこかへ逃げ出さなければ…」そんな切迫感が蔓延していた。実際、10日ほどの休暇を取り「カナダの親戚のところに遊びに行く」、「楽しかった」と言っては、数週間後にはトロントに移住する連中が続出した。(トロントは風水がいいのだそうだ。)その費用を稼ぐため、また自分を高く売り込めるように、少しでもよい給与とタイトル(マネージャーとかディレクターとか)を求めて欧米系広告会社の間を数か月単位で次々と渡り歩いていた(ジョブ・ホッピング)。
 (勿論、香港人のすべてが欧米に移住したわけではない。逆に、成長著しい中国本土で香港の経験を活かせば大儲けできると中国本土に飛び込んだ人たちもいる(特に広告主側の人たち)。ほとんどの人は、不安を感じながらも、まあ大丈夫と自分に言い聞かせて、香港に残った。)
 香港の人たちは、国も会社も当てにしない。それらが自分たちの面倒を見てくれるとは思っていない。そもそもイギリスは、阿片を売り込んだ上に武力で香港を奪った国だ。一方、中国中央での政治闘争の余波を受けて落ち延びてきた先祖を持つ人もいる。夜、財産であるアヒルを追い立てつつ海を泳ぎ渡って香港に逃げてきた農家もいたそうだ。そして、直近には天安門事件の怖い記憶がある。当てにできるのは、家族、親戚、真の友人、自分の才覚、そしてお金だ。香港の人たちは、どの国(≒パスポート)がベストか、どの働き口に移るべきかと比較対照する。国も企業も自分が利用するために選択する対象なのである。(新聞の広告ページには、途上国のパスポートを仲介する「XY国パスポート、HK$—」という宣伝があふれていた。)
 同僚の若い女性たちは、「結婚相手は、ダサくても年寄りでもまったく構わない。唯一の条件は金持ちであること。金がすべてだ」と口をそろえて言っていた。しかし一方で、彼女らはとてもよく働く。深夜までデスクに向かっているので、「残業代も出ないのになぜそんなに熱心なの」と尋ねると、「Because of my pride(わたしのプライドだから)」ときっぱりと答えた。実利を口にしながら、メンツや誇りを大事にするのも香港人だ。
 香港の人たちについては、こんなことも思い出す。
 MTR(地下鉄)の駅で電車が入ってドアが開くと、皆がどっと乗り込む。(20年以上昔のことなので、今は違うかもしれない。)日本人は「ちゃんと並べよ。マナー悪いな」とあきれるが、その後にお年寄りやお腹の大きな女性が来ると、4,5人が一斉に立ち上がって、ついさっき取り合いをした席を競い合って譲る。寝たふりをしたりはしない。

 こういう香港人の誇りや道義心が発揮されたのが、今回の若者たちの抵抗運動だろう。自分たちの社会の将来を守るため、みずからを危険(物理的な&政治的な)に晒して闘っている。
 行政長官を自由に選ばせろという雨傘運動に続き、今回の引き渡し条例の白紙撤回を求めた取り組みは、一国二制度が認めていたはずの香港の自治を死守せんとするものだ。引き渡し条例が成立し、香港で自由や人権のために頑張る人がなんらかの罪をでっちあげられて中国に引き渡されてしまえば、どうされるか分からない。香港の自治はなし崩しにされる。この危機感が若者たちの間に広がった。
 一国二制度は、鄧小平の決断だと言われる。返還された香港は、中国にとって奇貨だ。「中国本土の制度を乱暴にあてはめて、せっかくの香港の価値を損なうべきではない。」そういう判断がされたのだろう。賢明だと思う。
 しかし、返還から20年以上が経過し、上海をはじめとする他の沿海都市の発展によって、北京政府にとっての香港の相対的価値は低下した。その分だけ、香港に対しても特別扱いせず本土並みの支配に近づけたいと考えたのだろう。また、香港と本土の民間の交流が深まるにつれ、本土の人たちの意識が高まり、本土(メインランド・チャイナ)に自由や人権の考えが広まることをおそれたのかもしれない。
 つまり、北京政府は、香港の問題を内政問題として考えているのだと想像する。しかし、中国は、もはや世界の大国だ。経済的に米国を追い越すのも、あり得ないことではない。追われる米国も、なんとかその地位を死守せんと懸命になるに違いない。その時に世界がじっと観ているのは、はたして中国は世界のリーダーにふさわしい国になりつつあるのか、という点だ。米国と「覇権」を競い世界から注目される中国には、もはや純粋な国内問題は存在しない。どのような「国内問題」であっても、それへの対処は世界へのメッセージの発信となり、世界の評価を受けることになる。ここで評判を落とせば、世界への影響力は低下する。
 だから、今の香港問題への対応は、世界のリーダーとしてふさわしいのかどうか、それを値踏みされているという意識を北京政府にはもって欲しい。もし再び天安門事件のような対応をしてしまえば、中国政府の受けるダメージは計り知れない。
 「いや、香港の勝手を許せば、本土のあちこちで統治ができなくなる」というなら、それは北京政府の力量不足だ。香港のみならず、中国本土のあらゆる場所で、人々の自由や権利を保障しながら、人々の暮らしを支えつつ、統治することができるのか。それを世界は観ている。その期待に見事に応え、よりよき世界を実現するリーダーたるにふさわしいと、みずから証明して欲しい。
 「では、米国は、リーダーにふさわしい振る舞いをしているというのか?」 北京政府は、そう反論するかもしれない。確かに米国は世界各地で酷いことをしてきたし、今もしている。今回の香港での動きにも、おそらくはなんらかの介入を試みているだろう。学生らを煽って過激な行動に走らせ、対立を激化させようとしているかもしれない。あるいは、香港警察が過剰な対応をするように工作している可能性も否定できない。(今回報道されている香港警察の乱暴ぶりは、わたしが知っているかつての香港警察の、規則に厳格で規律正しい印象とはまったく異なる。20年以上経過し、中国返還もあり、香港警察も変わったのかもしれないが…。ともあれ、対立の激化を期待している勢力がいることを中国政府は意識すべきだ。)
 米国がリーダーにふさわしいかに話を戻そう。酷いことをしているが、その一面で、自由や人権の守護者の顔もある。それは、フリだけだ、フェイクだ、ということもできよう。しかし。表向きの顔だけであって内実は違うとしても、そのフリを続ける限り、表立っては正しく振る舞わなければならなくなる。善なる主張をせねばならなくなる。表面上のフェイクも、一定程度行動を規制する作用がある。これを狡猾といってもいいし、洗練されたと表現してもいい。現実の政治や外交の泥沼の中で、大国にふさわしいリーダーとして振る舞うとは、そういうことだと思う。中国政府は、香港においても、外国との関係においても、国内の統治においても、自由や人権を尊重する(尊重しているフリをする)行動をとるべき立場になりつつある。世界はそれを観ている。

 では、日本はどうなのか。徹底した米国追従ぶりだ。日米安保の下にある日米地位協定が日本国憲法より優先されている点を見れば明らかなように、戦後日本の保守政治は一貫してそうだった。ロッキード事件以降はその傾向が一層強まった。しかし、今の安倍政権は度が過ぎている。積極的にみずから媚びを売り、血税を差し出し、自衛隊員までどうぞご自由にお使いくださいと揉み手をしている。米国のグローバル企業の便宜のためには、農業や食の安全も顧みない。トランプ政権に気に入られてみずからの延命を図ることしか考えていないのだろう。しかし、トランプ大統領の出現自体が、アメリカの従来のシステムが機能不全を起こしている証左だ。

 米国と中国の力関係が変わっていくのであれば、これまでのような米国一辺倒では破綻する。
 米国と中国のシーソーの中間に立って、右に行ったり左に行ったりきめ細かくバランスをとることが必要だろう。米国と中国だけではない。ロシアもある。アジア、アフリカ、中南米、ヨーロッパ、オセアニア、すべて大切だ。大きな地図の上で、目配り、気配りをして、正しい立ち位置をとる。大国のリーダーとしてではない。そんな力は日本にはない。仲介者として、世界の人々のために貢献するのだ。

 大国もそうでない国も、要は徳があるかないかだ。徳があれば、世界から敬愛され、徳がなければ軽蔑される。
 徳とはなにか。自国の事のみならず、世界中の人々から苦をなくしていくように努力することだ。日本国憲法前文にはっきりと書いてある。
 「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去するすること」
 「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏を免かれ、平和のうちに生存すること」
 この崇高な目的のために真摯に努力すれば、世界中の人々から敬愛される国になれる。それが「国際社会において、名誉ある地位を占め」るということだ。国際社会における発言力も高まるだろう。
 きれいごとと笑うだろうか。しかし、本性を晒して自国の利益ばかりを追えば、軽蔑される。フェイクでも徳を装わねばならない。ばれないようにしっかりと演じるうちに、徳は次第に内側の深いところまで染みてゆく。
 懸命の外交努力が必要だ。いや、外交より先に、政治が徳を備えねばならない。
 日本の現状を鑑みれば、とても不可能のようにも思える。しかし、なんとかそういう国にしなければならないと思う。