天皇制の一側面

 何事であれ、様々な視点からいろいろな評価が可能だ。天皇制についても同様である。わたしの気になっている天皇制の一面について、書いてみたい。
 天皇制は、他の人たちに言うことを聞かせたい人々に利用されがちだ、という点である。

 人徳や才能があれば、おのずと人は尊敬の念を抱く。しかし、徳も才能もないのに、人々を従わせたい人は、しばしば天皇制を利用し、天皇を笠に着て威張り散らす。
 分かりやすいのは、戦争中の軍隊だ。
 「畏れ多くも」とか「かしこくも」といった言葉が発せられた瞬間、「天皇陛下」と言う前に、そこにいる全員を直立不動にさせることができた。そのうえで、天皇から預けられた銃の手入れが悪いと言って、兵隊を殴る。しかし、その上官の立場からすれば、若い兵士は天皇から預かっている天皇の赤子ではないのか。天皇から預かった銃の手入れが悪いからと言って、天皇から預かった天皇の赤子を力いっぱい殴るのは、論理が破綻している。つまり、天皇制を心底絶対視しているのではなく、威張り散らしたいために天皇制を利用しているのだ。

 軍隊の末端の現場だけのことではない。
 そもそも中世以降、天皇家は、権力を握りたい新興勢力が勃興してくるたびに、征夷大将軍などの位を授けてお墨付きを与え、自分たちを守らせてきた。天皇から位ともに与えられた権威で抵抗勢力を押さえつけ、その権威を小分けにして自分の組織の末端まで分配することで、支配の体制を完成することができた。天皇制は、天皇制を利用して支配しようとするものに支配の権威を与え、それによって天皇制は生きながらえてきた。支配するものと天皇制とは、持ちつ持たれつなのだ。
 (このことは、マッカーサーと昭和天皇の関係にも、あてはまると思う。)

 権威による支配とは、いいかえれば空気による支配である。この支配は支配の階層を滴り落ち(トリクル・ダウンし)、軍隊であれば新兵教練の現場にまで浸透する。そこまで露骨ではないが、現代でもこの権威による支配、空気による支配は、我々の身近な様々な場面で隠然たる力を保持している。忖度させる力と言い換えることもできる。
 それを窮屈な圧迫として感じないという人がいれば、その人は、おそらく権威を利用して支配する側の末端にいるのではないだろうか。

 この天皇制の、支配する人たちにその権威を利用されやすいという性質は、民主主義にとって障害となる。
 徳も才能もないがいうことを聞かせたい人たちは、意見を言わせず、黙って従わせようとする。その時、権威による支配、空気による支配は、絶好の道具だ。人々は、みずから忖度するように仕向けられ、自分の考えではなく、支配する側の都合を慮る。民が主である民主主義ではなく、支配する側の空気が強まっていく。

 これは天皇制の本質に根差す問題なのだろうか。それとも、支配する側に利用されない、権威を笠に着た支配に転化しない、忖度のない自由な意見表明と両立する天皇制というものはあり得るのだろうか。
 ヨーロッパの王室を持つ国の事情などを参照すれば、参考になるのかもしれない。しかし、以前イギリスで短期語学研修を受けているとき、Queen Mother の話題になって、わたしが軽く、”Who is she?” と呟いたら、女性教師はすかさず人差し指を立て、”Be careful!” と制した。そこには明らかに威嚇のトーンがあった。イギリスでも王室は、人を服従させようとする権威を人にもたらすのだろう。

 ともあれ、権威による支配が天皇制に本質的に根差しているとしても、それをみずからの支配のために利用しようとする人たちの思惑を我々は常に警戒し、抵抗せねばならない。忖度させる空気の支配に負けずに、互いに言いたいことを言い合って空気を入れ換え、わたしたちの民主主義を頑強なものに育てていかなければならない。
 これこそが、憲法12条が自由及び権利の保持のため国民に要求する「不断の努力」である。

2019年11月12日            曽我逸郎

改憲論議は、安倍政権とではなく、国民と

 『全国首長九条の会 結成のつどい』が、11月17日東京で開催される。わたしも参加しているのだが、当日は安冨歩先生の講演会と重なっていて、参加できない。以下のメッセージをお送りした。

 * * * * *

改憲論議は、安倍政権とではなく、国民と

2019,11,11   長野県前中川村長 曽我逸郎

 『全国首長九条の会』の発足、大変ありがたく喜んでおります。ここまで引っ張って下さった役員・事務局の皆さま、真にありがとうございました。結成後は、参加するみんなでスクラムを組み、取り組みを前進させて、安倍政権の横道を止めなければなりません。
 ところが、「結成のつどい」には、同日に飯田市で安冨歩先生の講演会を開催するため参加できず、申し訳ありません。代わりにメッセージをお送りいたします。

 安倍首相は、「憲法改正の発議をしないのは国会議員の怠慢」と主張しました。「改憲の議論に応じないのは怠慢」といった野党への挑発も耳にします。確かに、自民党が改憲論議に誘い込む入口にしようとしている国民投票法のみならず、憲法には不備な部分もないわけではありません。
 7条3項の恣意的拡大解釈によって首相の「衆議院解散権」が既成事実化している点や、53条に定める議院の要求による臨時会の召集に期限が設けられていない点などは、何らかの対応が必要でしょう。そのためには幅広く深い議論が必要です。
 しかし、その議論は、安倍政権とすることではありません。野党間で、野党と国民で、国民同士で議論すべきことです。
 憲法は、統治する権力を縛るのですから、縛る側の国民がどのように縛るかを議論すべきです。縛られる側が「こういう縛り方にしろ」と要求するのは、筋が間違っています。9条改憲も緊急事態条項新設も、縄を緩めてやりたいようにやりたいという、縛られる側の思惑です。認めるわけにはいきません。
 あるべき憲法の議論はじっくりと時間をかけて大いにやりましょう。ただし、安倍政権は蚊帳の外にして。国民同士で。

朗報! ISD条項は過去のものに!

 ISD条項は、過去のものになりつつある、というお話を聞いた。

 元農水大臣の山田正彦さんが、一昨日(10/22)お隣の松川町(長野県下伊那郡)に来られて、種子法・種苗法・遺伝子組み換え・ゲノム編集について講演して下さった。
 翌朝、中津川の駅までお送りした際、表題の話題になった。こんな会話だ。

曽我:多くの県が、国が廃止してしまった種子法に代わる条例を制定している。素晴らしいことだ。しかし、遺伝子組み換え作物で農と食を支配しようともくろむグローバル資本が、TPPのISD条項を使って「この条例によって損失を被った」と莫大な損害賠償請求をするのではないか。実際に訴えられなくても、その可能性があるというだけで、県は腰砕けになりはしないか。

山田:ISD条項で自治体が訴えられることはない。それにまた、関係する各国の間で、ISD条項はおかしいと見直しの機運が高まっている。カナダの企業からISD条項で訴えられて米国政府が負けた結果、トランプ氏も「国際法廷で裁かれるのは国家主権の侵害だ」とISD条に反対し始めた。ISD条項は死につつある。

 高速道路を運転しながらの会話なので、細部には聞き違いがあるかもしないが、大筋は間違っていないと思う。
 せっかく条例ができてもISD条項で脅されるのではないかと危惧していたので、大変うれしく思った。ISD条項の心配がなくなれば、種子法の役割を担う県条例の制定は、大いに意味がある。
 残る問題は、根拠法がなくなって、良質な種子を農家に安定的に供給するために必要なお金を国が県に交付しなくなり、県が予算的に事業を継続できなくなることだ。しかし、これは国内問題にすぎない。国際法廷がからむ問題に比べれば、はるかに対応は容易だ。公的種子を安定供給することの重要性を理解する政権に替えればよいのだから。

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 山田さんの講演の概略も書いておこう。如是我聞。わたしの理解のまとめなので、文責はわたしにある。今回の講演では言及されなかったが、別の機会に聞いたことも、< >でくくって補うことにする。

 「ゲノム編集は、遺伝子組み換えとは異なり、外からの遺伝子を持ち込まず、生物がもともと持っている遺伝子の一部を破壊するだけだから、自然界の突然変異と同様に危険はない」と主張されているが、そうではない。狙った部分だけでなく、まわりの遺伝子も壊れてしまう。その操作に使われる酵素(?)も細胞内に残ってなんらかの影響を与える。遺伝子の中で機能が分かっているものはほんの一部に過ぎず、ある状況にならないと活性化せず普段は眠っている遺伝子も多い。遺伝子は、相互に複雑に連携し影響し合っている。遺伝子の一部がある不都合な形質に関係しているからといってその部分を破壊すると、思いもがけない結果を引き起こすことになりかねない。

 米国などでは、<虫が食べると腸に穴が開いて死んでしまう毒素の遺伝子を組み込んだ作物(殺虫剤不要が売りにされる)や、>除草剤をかけても枯れない遺伝子組み換え作物(除草剤まみれで育てられる)が大量に栽培されている。また、収穫直前の穀物に除草剤をまいてワザと枯らし、収穫を容易にし乾燥の手間を省くようなことも広く行われている。
 そういった遺伝子組み換え作物や農薬の残留した作物を日常的に摂取していることが、近年増加している子どもたちのさまざまな障害の原因ではないかと疑われ、海外では、Non-GMO(=遺伝子組み換えでない)やオーガニックの食材の需要が高まっている。そのような自然食材に代えた結果、子どもの状態がよくなったという報告もされている。自然食材のマーケットも確立し、逆にオーガニックやBioの認定をとれない食材は、市場で評価されず、低価格でしか売れなくなっている。
 
 ところが、日本政府は、<日本に農作物を輸出する海外アグリ企業の要求で、これまで農薬に分類されていたものを食品添加物にカテゴリー変更することまでして、>残留農薬の基準を大幅に緩和している。今や、残留農薬に関する日本の規制基準は、諸外国に比較して大幅に甘くなってしまった。また、認可された遺伝子組み換え作物の数も、日本が突出して多い。海外で禁止する動きが広がっているラウンドアップなどグリホサートを主成分とする除草剤も、日本では野放しだ。国民の健康のため、食の安全を確保しようとする海外の動きに、日本政府はまったく逆行している。

 遺伝子組み換え作物やゲノム編集作物の問題点は、食の安全だけではない。それらが、特許で守られるという点も大きな問題だ。
 特許で守られているので、収穫物を勝手に売ったり人に提供したりすることはできない。全量を種の特許を持つ企業に買い戻してもらうしかない。米を育てた農家なのに、都会に暮らす子や孫に米を送ることは勿論、自分たちが食べることさえ特許侵害にされてしまう。
 栽培方法(例えば、指定されたブランドの除草剤を何回かけろとか)や収穫の買取価格など、種を売る側に有利なように契約書で事細かに定められる。合理的な理由なく契約を解除できないとも記載されている。南米では農家が読めない英語の契約書が使われた。
 <売り先を自分だけに限定した食材(コメなど)で、生産のみならず、食の流通・消費まで網を広げることが、グローバル・アグリ資本の目論見だ。>

 <種子法の廃止は、この目論見を支援するものだ。廃止の理由として「民間資本の市場参入を阻害しているから」とされたが、「民間」とは、グローバル・アグリ資本ではないのか。国内企業だとしても、グローバル企業と提携し、利害を一体化させた企業だ。彼らの便宜のために日本政府は、彼らの障壁である種子法を取り除いたのだと思う。>

 グローバル・アグリ資本とそれに連携する国内企業の便宜のために、日本政府が国民の健康をないがしろにしている現状に、どう対処すればいいのか。
 種子法に代わる条例を多くの県で制定したように、地方からの取り組みが重要だ。有機・無農薬の農作物を普及させるには、市町村の支援の取り組みが有効だ。
 有機・無農薬の作物は、これまでどおり農薬や化学肥料を使う慣行栽培に比べて価格が高くなる。家計にゆとりのない現状では、買い手がつかず、農家としては売れないものをつくっても生業にならない。そこで、行政が買い上げて、例えば学校給食に使う。そうすれば、農家は安心して安全な作物をつくることができる。韓国では、学校給食の無農薬化が既に幅広く普及している。
 消費者が安全な作物を要求するだけではうまくいかないし、市町村長や教育委員会が独善的に進めるのもよくない。消費者が学び、声をあげ、行政も歩調をそろえ、農業生産者の理解と協力を得てその事情にも配慮して、どこにも無理を押しつけないやり方を模索していく。その中で、消費者(=有権者)の啓蒙もすすむだろうし、最終的には、政府の考えも変えることができるかもしれない。(おそらくは、今の政府の考え方を変えるより、政府を取り換えることになるだろう。
 さまざまな人たちがそれぞれの立場で協力し合うことが大切だ。立憲民主党総支部長になったわたしとしては、今の政権に替えて、グローバル企業の利益よりも国民の健康を重視する「まっとうな」政権に替える一助となるのが自分の役割だと思う。)

 「それにしても、日本政府は、国民の健康をないがしろにしてまで、どうしてグローバル企業に便宜を図るのでしょうか。なにか見返り、利権があるのか。あるいは、政権延命のためでしょうか。」
 「常識では理解できないね。そうとでも考えないと。」
 車の中でそんな会話をした。

2019,10,24
立憲民主党長野5区総支部長 曽我逸郎

  種子法廃止には、もうひとつ問題点があった。多様性が失われることだ。
 品種を大切に保持し受け継いでいくには、大変な労力とコストを必要とする。それでも種子法があるうちは、都道府県が主要農作物のさまざまな種(籾)を責任をもって管理保存してきた。その地域ごとの自然や気候風土、文化伝統に根差した多様な品種が大切に受け継がれてきたのだ。しかし、種子法を廃止して外国企業など民間にゆだねれば、採算に合う一部の(特許)品種だけに集約されてしまうことになるだろう。
 かつてアイルランドはジャガイモに食料を依存していた。しかもそれが単一品種だったため、病気が蔓延した時、全滅に近い状況になってしまい、深刻な飢饉に陥った。沈没したタイタニック号の二等船室にアメリカに移住しようとするアイルランド人が大勢乗っていたことには、そんな時代背景があった。
 しかし、多様な品種を育てていれば、全滅にはならない。病気の流行に対処するには、様々な品種が必要なのだ。まして、天候不順・異常気象が頻発する昨今では、リスク対応に多様性は欠かせない。
 しかるに、種子法の廃止は、数少ないグローバル・アグリ資本の限られた品種の米・麦・大豆しかない状況を生み出してしまう。安倍政権は、そのリスクを顧みていない。

消費税ではない発想

 消費税が8%から10%に上げられた。25%の増税だ。
 景気への悪影響を減じるためだろう、「軽減税率」と呼ばれる複数税率制度やキャッシュレス決済ポイント還元制度も合わせて開始された。(「軽減税率」は、実際は税率据え置きであって軽減ではないので、「 」をつけたい。ポイント制は来年6月までの時限制度)

 わたしには、これらは大変ちぐはぐな政策だと思われる。根本から考えていない。日本の政策は、しばしば根本の方針が間違っていて、実行すればさまざまな問題が生じる。ところが、根本を改めないまま、対処療法的な目先の対応を繰り返し、その結果、矛盾だらけ、継ぎはぎだらけになる例が多いと感じる。費用対効果は上がらず、副作用さえある。

 今回は、消費税で景気に強いブレーキをかけながら、ポイント制度などでちまちまとアクセルを踏もうとしている。ヒール&トゥ(シフトダウンの際にブレーキを踏みながらアクセルを煽る高度な運転テクニック)ではあるまいし、「景気対策も忘れてません」という言い訳のアリバイ作りにすぎない。消費増税という日本刀で消費者に切り付けておいて、絆創膏を配るようなものだ。しかもこの絆創膏が、良く分からないややこしい絆創膏である。

 複数税率の複雑さが引き起こす混乱や、キャッシュレス決済ポイント還元制度に対応できない商店の困惑が報道されている。それだけではない。わたしが暮らすような山村では、高齢の店主の古くからのお店もある。近所のなじみ客の日常の必要に応えるため、なんとか店を続けているのが実情だ。そんなお店にとって、キャッシュレスは勿論、複数税率への対応は大きな負担であり、これを機に商売をやめる店もでてくるだろう。そうなると、自動車に乗れないお年寄りは、買い物難民になってしまう。

 複数税率やポイント還元制度だけではない。消費税そのものが、根本で間違ったちぐはぐな施策だと思う。

 消費税でよく指摘される問題は、逆進性だ。低所得層ほど負担度が高い。所得が少なくても、完全自給自足生活をしているのでない限り、生きていくためにはものを買わねばならない。生存のために購入・消費は絶対に必要なのだ。所得が多ければ、生存のためだけでなく、楽しみのために消費をすることもあろう。もっと豊かであれば、収入の一部を消費ではなく貯蓄に回したり、さらには株などに投資する人もいる。しかし、所得が少ない人にとっては、消費=生存なのだ。つまり、消費税は、生存に課する税金であり、いうなれば人頭税に等しい。

 消費増税の目的はなんだろうか。増え続ける福祉予算をまかない財政赤字に対処するためだという。では、今回増税すれば当面は安泰なのか。残念ながらそうではない。景気が好転して税収が増えない限り、今回の増税は一時の時間稼ぎでしかない。高齢化が進んで社会保障費は増大し、少子化で労働人口は減少して現役世代の負担は増える。さらなる増税や社会保険料の値上げ、福祉のカットが避けられないという。

 一寸待って欲しい。消費税は景気を悪化させてしまうじゃないか。消費税で景気を悪化させながら、景気の好転を期待するのか。若者たちからゆとりを奪い、生存だけに汲々とするような暮らしをさせていることが、少子化の原因ではないのか。目先の税収のために消費税を上げた結果、景気は悪化し、若者の暮らしはさらに苦しくなり、少子化にますます拍車がかかる。消費税は、消費にペナルティを課すことだから、消費が落ち込むのは当然のこと。GDPの6割を占める個人消費が減退すれば、景気は悪化する。生存だけで精一杯の若者に、家庭を持ち子どもを育てるゆとりはさらになくなる。目先の税収アップのために、日本の経済や社会構造を損なうのが消費税だ。

 景気を底上げし、少子化に歯止めをかけるには、反対に人々の購買力を回復させなければならない。

 経営の側は、人件費をコストと考え、削減してきた。個々の企業が労働者を減らし、賃金を抑制してきた結果、社会全体の購買力が失われ、消費は落ち込み、内需は冷え込んだ。労働者は、同時に生活者であり、消費者なのだ。需要を喚起し、お金が世の中を廻るようにして景気を回復するには、労働者のサイフにゆとりをもたらさねばならない。
 生活にゆとりが生まれれば、自分の面白がれる仕事をし、やりがいを目指して働くこともできる。今のような、生存のために上司の意向を忖度してそのために働くような、自分を殺した働き方は減っていく。社会全体がのびのびしていくはずだ。それでこそ創造性も生まれる。今の日本企業が、みんなをワクワクさせる新たなジャンルの商品・サービスを生み出せていない理由は、忖度を強いる窮屈さのせいだと思う。

 消費税は勿論、公共料金や社会保険料なども減らしていくべきだ。教育費などの負担も下げて、税金は暮らしを支えることに使っていく。今のゆとりと未来の安心こそが、根本の景気浮揚策であり、少子化対策だ。

 しかし、いつもの聞きなれた批判が聞こえてくる。「財源はどうするのか?」

 まずは、「財政赤字に対応するには消費税を上げるしかない」という思い込みを捨てようではないか。
 消費税は、来年度の税収最大の割合を占めることになるそうだ。しかし、消費税だけが税金ではない。

 消費税は20年前に3%で始まり、ついに10%まで上げられた。当然、消費税の総額は一貫して右肩上がりで増えている。それに対して、法人税や所得税からの税収は、この20年間右肩下がりだ。一般会計の税収合計は、20年前のレベルから一旦落ち込み、近年やっと20年前の水準に戻った。つまり、消費税総額がふえても、税収の総額は増えていない。消費税収が増えた分、法人税や所得税からの歳入が減っているのである。
 法人税は、消費税とは反対に税率が下げられてきたし、さまざまな控除が「抜け道」として用意されているといわれる。法人税をきちんと徴収する税制にする必要がある。
 所得税の累進性も弱められてきた。また、株の売却益などは、分離課税とされ、累進課税を免れ、どれだけ莫大な利益を得ても20%の課税ですんでしまう。これも是正するべきだ。

 グローバル企業が、国境を超えて利益をタックスヘイブンに貯め込み、課税逃れをしていることにもメスをいれなければならない。勿論日本だけでできることではない。日本が音頭を取り、外国政府と連帯して、グローバル企業から徴税する新たな仕組みを構築すべきだ。
 トービン税というアイデアもある。為替取引は、現実のモノやサービスの対価を支払うためよりも、利ザヤを狙った通貨取引が非常な高頻度で繰り返されている。そこに極低率の課税をするだけでも、膨大な税収になる。これも外国政府と協力し合った取り組みが必要だ。
 
 同時に、歳出の無駄も省かねばならない。例えばイージス・アショアがいい例だ。これについては、日本ではなく、ハワイとグアムを守るために日本の税金でアメリカから購入する、という、本当なら呆れるしかない分析があるが、それは置いておいても、例えば北朝鮮のミサイルは技術革新が目覚ましく、単純な弾道軌道ではない変則的な軌道を飛ぶ新型が7月に発射された。ミサイル迎撃の信頼性はただでさえ元々低いのに、変則軌道となればお手上げだ。新型ミサイルによって、イージス・アショアは無用の長物になった。
 そもそも安倍政権は、リスクに真剣に対処しようとしているとは思えない。都合のいいリスクをつまみ食いして利権にしているのではないかと感じざるを得ない。イージス・アショアのような愚かなことに巨額の税金をつぎ込むのではなく、外交交渉に精力を傾け、軍備への依存度の低い安全保障を模索するべきだ。

 この際もう一段階踏み込めば、「財政赤字をそれほど重大視する必要はない」という学説も、最近いくつか話題になっている。批判も多いし評価はまだ定まっていないが、少なくとも、以下のように考えることはできるのではないか。

 財政赤字が警戒される理由は、その累積が巨額になるとハイパーインフレを引き起こすといわれるからだ。しかし、日本の債務残高は既にGDPの200%に達しており、そんな中で日銀が異次元緩和をして懸命にインフレ率を上げようとしても、そうできなかった。今の状況は、積極的にリスクを取って投資をする人がおらず、金融緩和をしても需要が伸びないので物価が上がらないのだ。そうであれば、歳入を基準に財政規律を捉え歳出の超過が直ちに悪であるという考えは捨ててもいいのではないか。代わりにインフレ率を財政規律の基準にする。インフレ率が適正なレベル以下である限りは、国民生活を支えるための支出を抑えるべきではない。国家財政を破綻させないために、歳出を歳入以下に抑え込むことに拘って福祉を削減して国民生活を破綻させるなら、本末転倒だ。

 しかしながら、これはやはり財政規律の緩和であり、安倍政権下では行ってはならない。なぜなら、財政規律を緩和すれば、安倍政権はこれまで以上に「お友達」への冨の再分配を強化するからだ。歳出は、「お友達」にではなく、国民の暮らしを支えることに使わねばならない。
 まずは政権交代を実現する。しかる後に、消費税を削減していき、取るべきところから税金を取り、暮らしのために税金を使う。そのためには、財政赤字を恐れない。ただし、インフレ率に常に気を配りながら。

 踏み込んだ考えを公表し、批判に晒してみた。ご意見をお聞かせください。考えを深めるヒントにしたい。

2019年10月4日           曽我逸郎

長野県第五区総支部 規約(案)

 本日(2019、10、3)遅まきながら、立憲民主党長野県第5区総支部の第一回(拡大)幹事会を開きました。たくさんの課題を議論しましたが、規約の原案がきまったので、ここに掲載します。総会での承認をもって正式に決定となります。

 

立憲民主党長野県第5区総支部 規約(案)

第1条  (名称・事務所)

    本総支部は、立憲民主党規約第8章第37条に基づく総支部であり、名称を「立憲民主党長野県第5区総支部」と称し、下伊那郡豊丘村河野8047に事務所を置く。

第2条  (目的)

 本総支部は、立憲民主党の綱領及びそれに基づく政策の実現を図ることを目的とする。

第3条  (組織)

 本総支部は、立憲民主党規約第37条に基づく組織とする。

第4条  (立憲パートナーズ)  

 立憲パートナーズは、立憲民主党綱領に賛同し、ボトムアップの政治に参画しようとする18歳以上の個人(在外邦人及び在日外国人を含む)で、政治過程に参画することができる。手続き等の詳細は別途定める。立憲パートナーズは定められた会費を納めなければならない。

第5条  (党員)

 立憲民主党の綱領及びそれに基づく政策に賛同し、本会の定める入党手続きを経た18歳以上の日本国民を党員とする。手続き等の詳細は別途定める。党員は定められた党費を納めなければならない。

第6条  (総会)

 総会は、本総支部の最高決議機関であり、幹事会が定める基準によって構成し、幹事会の議を経て総支部長が毎年1回以上招集する。

 2 総会は、年間の活動方針、規約の改定、総支部役員の選任、党運営に関する重要事項の決定及び報告等を行う。

 3 総会の運営などについては幹事会で別に定める。

第7条  (幹事会)

 本総支部の幹事会は、総会決定に基づき、党務を執行する機関であり、総会に責任を負う。幹事会はその過半数で議事を決め、決定事項等を構成員に報告し、決定事項の実現・推進を図る。

第8条  (役員) 

 本幹事会は、次の役員をもって構成する。

      ①総支部長    1名      ②幹事長   1名

      ③幹事     若干名      ④会計    1名

      ⑤会計監査    1名

 2 その他の役員については、総支部長が必要と認めた役員で構成し、任期は総支部長と同じとする。

第9条  (財政)

 本総支部の経費は、会費、党費、事業収入、交付金及び寄附金等をもって充てる。

 2 総支部運営のため、幹事会がその責任をおいて予算を定め、執行する。

 3 会計報告は、幹事会が作成し、会計監査を経た後、総会に報告する。

第10条 (会計年度)

 本総支部の会計年度は毎年1月1日から12月31日までとする。但し、初年度に限り、2019年7月17日から同年12月31日までとする。

<附則>

第11条  (規約改正)

 本総支部規約の改正は、総支部総会での決定により行うものとする。なお、本総支部に関する事項で、本規約にないものについては、立憲民主党本部規約などを遵守するものとする。

第12条   (規約の発効)

 本規約は2019年7月17日より発効する。

*2019年10月3日制定

* * * * *

立憲民主党規約より
 第 37 条
1. 衆議院議員選挙の小選挙区を単位として総支部を置くことがきる。
2. 前項のほか、比例代表選出衆議院議員及びその公認候補予定者(小選挙区と 重複立候補する者を除く。以下同じ。)ならびに参議院議員及びその公認候補予 定者の活動を支える支部組織として、総支部を置くことができる。
3. 第1項の総支部、ならびに選挙区選出の参議院議員及びその公認候補予定者 が総支部長を務める総支部は、当該選挙区を含む地域に都道府県連合が設置されている場合、当該都道府県連合に属する。
4. 比例代表選出議員及びその公認候補予定者が総支部長を務める総支部は、 執行役員会の承認を得て、1 乃至 3 の都道府県連合に属することができる。ただ し、複数の都道府県連合に属する場合、主たる所属の都道府県連合を定めなけ ればならない。
5. 総支部は、本規約に準じて規約等を定め、適正な組織運営に努めなければな らない。
6. その他総支部に関し必要な事項は、組織規則で別に定める。

香港、中国、日本の外交

香港 中国 日本の外交方針    2019,9,16

 1990年代、香港で4年ほど働いた。いささか香港に縁を持つ者として、現在の香港の状況について書いておかねばならない。
 結論めいたことを先に述べれば、中国政府には、広い視野で世界の反応を考え、長期的な視点で冷静な対応をしてもらわねばならない。結局は、それが中国にとっても利のあることだ。
 これは、凡庸な当たり前の意見かもしれない。それはわたしも同意する。ただ、米中の間に立つ日本の基本的な外交方針とも関わることであり、言葉として定着し「見える化」しておきたい。

 最初に、香港の歴史を簡単に振り返っておこう。
 言うまでもなく近現代の香港の歴史は、阿片戦争でイギリスが中国(清)から奪ったことに始まる。時々「99年間の租借が終わったので返還された」という解説を見るが、香港島と九龍半島の割譲は、永久にイギリスが分捕るという取り決めだった。99年間の租借は、九龍半島の北側の新界(ニューテリトリー)のことである。新界を返還すると、水、住居その他のインフラの必要が維持できず、香港島・九龍半島だけでは都市機能が成り立たない。だから一括返還された。
 (しかし、こうなった背景には、中国政府の巧妙な策略があったのだろうか。ジブラルタルを今もイギリスが領有していることを考えると、なぜイギリスが香港島と九龍半島を唯々諾々と(?)返還したのか、知りたくなる。)

 わたしが香港に暮らしたのは、1991年からの4年ほど。天安門事件(1986年)の記憶がまだ生々しいまま、中国への返還(1997年)が目前に迫る時期だ。香港人の同僚たちと丸いテーブルを囲んでわいわい食事していても、話題が返還に及ぶとみんな押し黙り、誰かが「まだ先だと思っていたのに、もうすぐそこまで来てしまった」とつぶやく。
 欧米系の広告会社だったので、「英語で広告などという資本主義の手先のような仕事をしている我々は、返還となればどう扱われるか分からない。一刻も早くどこかへ逃げ出さなければ…」そんな切迫感が蔓延していた。実際、10日ほどの休暇を取り「カナダの親戚のところに遊びに行く」、「楽しかった」と言っては、数週間後にはトロントに移住する連中が続出した。(トロントは風水がいいのだそうだ。)その費用を稼ぐため、また自分を高く売り込めるように、少しでもよい給与とタイトル(マネージャーとかディレクターとか)を求めて欧米系広告会社の間を数か月単位で次々と渡り歩いていた(ジョブ・ホッピング)。
 (勿論、香港人のすべてが欧米に移住したわけではない。逆に、成長著しい中国本土で香港の経験を活かせば大儲けできると中国本土に飛び込んだ人たちもいる(特に広告主側の人たち)。ほとんどの人は、不安を感じながらも、まあ大丈夫と自分に言い聞かせて、香港に残った。)
 香港の人たちは、国も会社も当てにしない。それらが自分たちの面倒を見てくれるとは思っていない。そもそもイギリスは、阿片を売り込んだ上に武力で香港を奪った国だ。一方、中国中央での政治闘争の余波を受けて落ち延びてきた先祖を持つ人もいる。夜、財産であるアヒルを追い立てつつ海を泳ぎ渡って香港に逃げてきた農家もいたそうだ。そして、直近には天安門事件の怖い記憶がある。当てにできるのは、家族、親戚、真の友人、自分の才覚、そしてお金だ。香港の人たちは、どの国(≒パスポート)がベストか、どの働き口に移るべきかと比較対照する。国も企業も自分が利用するために選択する対象なのである。(新聞の広告ページには、途上国のパスポートを仲介する「XY国パスポート、HK$—」という宣伝があふれていた。)
 同僚の若い女性たちは、「結婚相手は、ダサくても年寄りでもまったく構わない。唯一の条件は金持ちであること。金がすべてだ」と口をそろえて言っていた。しかし一方で、彼女らはとてもよく働く。深夜までデスクに向かっているので、「残業代も出ないのになぜそんなに熱心なの」と尋ねると、「Because of my pride(わたしのプライドだから)」ときっぱりと答えた。実利を口にしながら、メンツや誇りを大事にするのも香港人だ。
 香港の人たちについては、こんなことも思い出す。
 MTR(地下鉄)の駅で電車が入ってドアが開くと、皆がどっと乗り込む。(20年以上昔のことなので、今は違うかもしれない。)日本人は「ちゃんと並べよ。マナー悪いな」とあきれるが、その後にお年寄りやお腹の大きな女性が来ると、4,5人が一斉に立ち上がって、ついさっき取り合いをした席を競い合って譲る。寝たふりをしたりはしない。

 こういう香港人の誇りや道義心が発揮されたのが、今回の若者たちの抵抗運動だろう。自分たちの社会の将来を守るため、みずからを危険(物理的な&政治的な)に晒して闘っている。
 行政長官を自由に選ばせろという雨傘運動に続き、今回の引き渡し条例の白紙撤回を求めた取り組みは、一国二制度が認めていたはずの香港の自治を死守せんとするものだ。引き渡し条例が成立し、香港で自由や人権のために頑張る人がなんらかの罪をでっちあげられて中国に引き渡されてしまえば、どうされるか分からない。香港の自治はなし崩しにされる。この危機感が若者たちの間に広がった。
 一国二制度は、鄧小平の決断だと言われる。返還された香港は、中国にとって奇貨だ。「中国本土の制度を乱暴にあてはめて、せっかくの香港の価値を損なうべきではない。」そういう判断がされたのだろう。賢明だと思う。
 しかし、返還から20年以上が経過し、上海をはじめとする他の沿海都市の発展によって、北京政府にとっての香港の相対的価値は低下した。その分だけ、香港に対しても特別扱いせず本土並みの支配に近づけたいと考えたのだろう。また、香港と本土の民間の交流が深まるにつれ、本土の人たちの意識が高まり、本土(メインランド・チャイナ)に自由や人権の考えが広まることをおそれたのかもしれない。
 つまり、北京政府は、香港の問題を内政問題として考えているのだと想像する。しかし、中国は、もはや世界の大国だ。経済的に米国を追い越すのも、あり得ないことではない。追われる米国も、なんとかその地位を死守せんと懸命になるに違いない。その時に世界がじっと観ているのは、はたして中国は世界のリーダーにふさわしい国になりつつあるのか、という点だ。米国と「覇権」を競い世界から注目される中国には、もはや純粋な国内問題は存在しない。どのような「国内問題」であっても、それへの対処は世界へのメッセージの発信となり、世界の評価を受けることになる。ここで評判を落とせば、世界への影響力は低下する。
 だから、今の香港問題への対応は、世界のリーダーとしてふさわしいのかどうか、それを値踏みされているという意識を北京政府にはもって欲しい。もし再び天安門事件のような対応をしてしまえば、中国政府の受けるダメージは計り知れない。
 「いや、香港の勝手を許せば、本土のあちこちで統治ができなくなる」というなら、それは北京政府の力量不足だ。香港のみならず、中国本土のあらゆる場所で、人々の自由や権利を保障しながら、人々の暮らしを支えつつ、統治することができるのか。それを世界は観ている。その期待に見事に応え、よりよき世界を実現するリーダーたるにふさわしいと、みずから証明して欲しい。
 「では、米国は、リーダーにふさわしい振る舞いをしているというのか?」 北京政府は、そう反論するかもしれない。確かに米国は世界各地で酷いことをしてきたし、今もしている。今回の香港での動きにも、おそらくはなんらかの介入を試みているだろう。学生らを煽って過激な行動に走らせ、対立を激化させようとしているかもしれない。あるいは、香港警察が過剰な対応をするように工作している可能性も否定できない。(今回報道されている香港警察の乱暴ぶりは、わたしが知っているかつての香港警察の、規則に厳格で規律正しい印象とはまったく異なる。20年以上経過し、中国返還もあり、香港警察も変わったのかもしれないが…。ともあれ、対立の激化を期待している勢力がいることを中国政府は意識すべきだ。)
 米国がリーダーにふさわしいかに話を戻そう。酷いことをしているが、その一面で、自由や人権の守護者の顔もある。それは、フリだけだ、フェイクだ、ということもできよう。しかし。表向きの顔だけであって内実は違うとしても、そのフリを続ける限り、表立っては正しく振る舞わなければならなくなる。善なる主張をせねばならなくなる。表面上のフェイクも、一定程度行動を規制する作用がある。これを狡猾といってもいいし、洗練されたと表現してもいい。現実の政治や外交の泥沼の中で、大国にふさわしいリーダーとして振る舞うとは、そういうことだと思う。中国政府は、香港においても、外国との関係においても、国内の統治においても、自由や人権を尊重する(尊重しているフリをする)行動をとるべき立場になりつつある。世界はそれを観ている。

 では、日本はどうなのか。徹底した米国追従ぶりだ。日米安保の下にある日米地位協定が日本国憲法より優先されている点を見れば明らかなように、戦後日本の保守政治は一貫してそうだった。ロッキード事件以降はその傾向が一層強まった。しかし、今の安倍政権は度が過ぎている。積極的にみずから媚びを売り、血税を差し出し、自衛隊員までどうぞご自由にお使いくださいと揉み手をしている。米国のグローバル企業の便宜のためには、農業や食の安全も顧みない。トランプ政権に気に入られてみずからの延命を図ることしか考えていないのだろう。しかし、トランプ大統領の出現自体が、アメリカの従来のシステムが機能不全を起こしている証左だ。

 米国と中国の力関係が変わっていくのであれば、これまでのような米国一辺倒では破綻する。
 米国と中国のシーソーの中間に立って、右に行ったり左に行ったりきめ細かくバランスをとることが必要だろう。米国と中国だけではない。ロシアもある。アジア、アフリカ、中南米、ヨーロッパ、オセアニア、すべて大切だ。大きな地図の上で、目配り、気配りをして、正しい立ち位置をとる。大国のリーダーとしてではない。そんな力は日本にはない。仲介者として、世界の人々のために貢献するのだ。

 大国もそうでない国も、要は徳があるかないかだ。徳があれば、世界から敬愛され、徳がなければ軽蔑される。
 徳とはなにか。自国の事のみならず、世界中の人々から苦をなくしていくように努力することだ。日本国憲法前文にはっきりと書いてある。
 「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去するすること」
 「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏を免かれ、平和のうちに生存すること」
 この崇高な目的のために真摯に努力すれば、世界中の人々から敬愛される国になれる。それが「国際社会において、名誉ある地位を占め」るということだ。国際社会における発言力も高まるだろう。
 きれいごとと笑うだろうか。しかし、本性を晒して自国の利益ばかりを追えば、軽蔑される。フェイクでも徳を装わねばならない。ばれないようにしっかりと演じるうちに、徳は次第に内側の深いところまで染みてゆく。
 懸命の外交努力が必要だ。いや、外交より先に、政治が徳を備えねばならない。
 日本の現状を鑑みれば、とても不可能のようにも思える。しかし、なんとかそういう国にしなければならないと思う。