財政再建は必要か 『枝野ビジョン』を読んで

 『枝野ビジョン 支え合う日本』(枝野幸男 文春文庫)を読んだ。

 考えは、わたしとほとんどすべて同じだ。しかし、財政再建については、微妙にニュアンスが異なる。
 枝野代表は、<財政を健全化し、財政再建しなければならない>という思いがわたしより強い。ただし、財政赤字を一切認めないという立場ではない。

 少し引用しよう。
 ~「次世代にツケを残さないことも重要だが、今の時代を生きる人々に、必要な「支え合い」が行き届かなくなってはいけない。」(p72)
 ~「まずは負担増に対する国民の不信感を払拭し、再び信頼を取り戻すために、支え合うためのサービス、ベーシック・サービスの充実を先行させる。そして、不信感が払拭されるまでの間は、消費税などの大衆増税は棚上げし、優先順位の低い予算の振り替えと国債発行などによって対応せざるを得ない。」(p219)

 つまり、<今必要なサービスは多少の赤字を出してもきっちりと取り組み、それによって国民が「負担した分はきちんと自分たちのために使われるのだ」と政府を信頼し、負担を納得してくれる状況をつくった上で、長期的には財政を健全化する>という考えだ。
 <国民の暮らしを支えるために必要であれば、赤字財政を一時的に容認してそれに取り組むが、本来は健全財政があるべき姿である>という考えであろう。
 ~「国民に長期的には必要な負担をお願いしなければならないことは間違いない。」(p198)
 ~「私自身は、財政規律を重視している。将来にツケを残すことになる財政赤字の拡大は、できるだけ早期に止めなければならない。」(p218)

 わたし自身は、<財政規律の基準は、歳入額ではなく、インフレ率にすべき>と考えている。インフレ率が過度に上がらない範囲で(たとえば2%程度以下)、歳入には縛られず、暮らしのために必要な政策に積極的に取り組むべきだと思う。MMT的な考えだ。(MMTをしっかり理解している自信がないので、「MMT的」としておく。)
 「歳入と歳出とをリンクさせないのであれば、税金の徴収は必要なくなるのか?」という疑問があるかもしれない。税金はなくならない。税金の徴収は、財源のためではなく、お金が多すぎるところからお金を回収するためにおこなわれる。現在でいえば、内部留保をため込む大企業や、実体経済においてお金の巡りが悪い中で金融経済でだぶついているお金が回収の対象になるだろう。

 ただ、枝野代表とわたしの考えの方向はずいぶん異なるけれど、現実の政策にすればさほどの違いは生じないのかもしれない。コロナ禍が終息しても、次々と様々な事態は発生し、支援を必要とする人たちや状況は続くだろうし、そうなれば財政赤字でも手立てしなければならないからだ。
 先に引用した部分をもう少し前から再掲しておく。
 ~「財政健全化の重要性に対する思いは、今も変わらないが、それ自体が自己目的化していなかったか。できるだけ健全な財政を次世代に引き継ぐことは重大な責任だが、それは、今の世代も次の世代も、世代を超えて支え合うことが重要だからに他ならない。次世代にツケを残さないことも重要だが、今の時代に生きる人々に、必要な「支え合い」が行き届かななくなってはいけない。」(p72)

 しかし、一点だけ気になることがある。枝野代表は、赤字を増やさないだけでなく、これまでに積み上げてきた赤字も減らすべきという考えだろうか。
 もしそうだとすると、それは間違っていると思う。累積赤字を減らすということは、日本の世の中に出回っているお金を減らすことになる。お金は、血液のようなものだ。世の中のすみずみまで行き渡り、淀みなく循環することで暮らしを支える。過去の財政赤字までさかのぼって減らすということは、循環するお金を減らすことであり、身体の血液を抜くに等しい。そんなことをすれば、社会のどこかに不調が出る。バブルになって信用創造が過熱しているのでもない限り、やるべきでない。
 バブル崩壊後の「失われた20年」(もはや「失われた30年」かも)の原因の重要なひとつは、赤字拡大を恐れた財政にあると思う。財政赤字を出しながら、それに怯えて、消費税を上げ、福祉への支出を削り、庶民の国民負担を増やしてきた。家計を圧迫し、可処分所得を減らし、個人消費と内需を押し下げてきた。
 インフレ目標を2%と定め、手を尽くしたにもかかわらず実現できず、金融経済が過熱するばかりで、実体経済は低迷し続けている。その結果が格差の拡大だ。子どもに夢を諦めさせざるを得ない親が増え、自分一人生きるのが精いっぱいで家庭を持ち子どもを育てることが自分ごととは思えない若者が増えている。少子化の根本原因だ。

 しかし、「財政赤字を恐れず暮らしを支えるべきだ」と、ミニ集会で話すと、しばしば反論を頂く。
 「財政赤字を積み上げていけば、なにかあったとき、たいへんなことになるのではないか」
 「オイルショックや通貨危機、リーマンショックのような緊急事態が海外で起こって、積み上げた国債の価格や金利が大きく動いて、コントロール不能に陥るかもしれない」
 わたしとしては、「しかし、現に目の前で苦しんでいる人を放ってはおけないでしょう」と答えるしかない。将来世代にツケを残さないのはよいことだが、今の世代だけが過去のツケを背負わされるのは不公平だ。
 とはいえ、「なにかあったとしても大丈夫」と安心させるだけの説得力は、残念ながら持っていない。それで、『バランスシートでゼロから分かる 財政破綻論の誤り』という本(朴勝俊・シェイブテイル 青灯社)を読んだ。
 自分の考えはどうやら間違っていないようだと思えたが、まだ読みが浅く「なにかあったとき」の心配は払拭しきれていない。「破綻しない。ハイパーインフレは起こらない」ことが説明されているが、「それでも何が起こるか分からないし…」という不安は付きまとう。

 金利のつく国債という債務が積みあがっていくことへの恐れが不安の原因だ。金利のつく国債ではなく、金利のつかない政府通貨で必要な歳出をまかなえばどうなのか。政府通貨によるMMT(現代貨幣理論)はないのだろうか。
 以前読んだ『公共貨幣 政府債務をゼロにする「現代版シカゴプラン」』(山口薫・東洋経済新報社)は、日銀券を廃止してすべて公共貨幣(政府通貨)にあらため、市中銀行の信用創造も禁止する(100%マネー)という、現行システムとは全く異なる提案をし、数十年で政府債務残高をゼロにできるいうシミュレーションを提示している。
 もっともこれは極めてラディカルな変革が必要なので、経済・財政の理論上では成立しても、現実には、様々な利害がからみ、実現させるのは至難だろう。
https://itsuro-soga.com/2019/12/21/ を参照)

 いずれにしろ確認し共有しなければならないことは、「税収によって歳出をまかなうべきだ」という従来の常識は、現実に機能しなくなっており、この常識にこだわり続ければ苦しんでいる人たちを救済できない、ということだ。

 財政についての考え方を広げて、なんとかブレイクスルーの道を見つけ出さねばならない。

 ご意見いただけるとありがたい。

2021年7月6日 そが逸郎

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大坂なおみさんの記者会見拒否は、市民的不服従のお手本

 大坂なおみさんは、抜群の政治的センスを持っていると感じます。
 ”Black Lives Matter” のマスクにも感心しましたが、今回の記者会見拒否宣言は、市民的不服従の見事なお手本です。

 市民的不服従とは、同意できないと考える制度やルールに、非暴力で、公然と、名前と顔を晒して、懲罰を覚悟の上で、服従しないことです。それによって問題を提起して広く世論を喚起して熟議へと導き、おかしな制度・ルールを正そうとします。また、そんな目論見のないまま、単に「嫌なことは嫌!」と堂々と拒否を表明したことが、人々の共感を呼び、社会を変えることにつながる場合もあります。
 ただし、もしみんなの共感を得られなければ、ただ懲罰を受けて、立場を失うことになります。大坂なおみさんは、みずからそのリスクを背負って不服従をしているのですから、アスリートをはじめ、共感する人は、それを示して、彼女を支援するべきだと思います。

 市民的不服従の有名な事例は、公民権運動のきっかけとなったローザ・パークスさんの事件でしょう。
 市営バスが混んできて白人乗客が座れなくなり、白人専用席を増やすために席を立つように言われたローザ・パークスさんは拒否し、人種分離法違反で逮捕されました。大きな抗議運動が巻き起こり、人種分離法は違憲として廃止され、人種差別との闘いは今に続いているのです。市民的不服従は、リスクを冒して世論を喚起し、世の中を変えようとする試みなのです。

 市民的不服従が服従しないルールには、法律も含まれます。あるいは、もっと端的に、おかしな法律には従わないことが市民的不服従だ、といってもいいでしょう。「悪法でも法律だから従え」というのは、間違いなのです。勿論、冒頭で定義として述べた条件がつくことは当然です。

 世の中をよくしていく方法はいくつもあります。
 選挙によって自分の考えに一番近い候補者を議会に送り込むのもひとつです。考えを同じくする仲間と、デモや座り込み、ストライキをするという方法もあります。自分の考えを友達に話すことも大切なことです。
 憲法12条が、自由と権利を保持するために国民に要求する「不断の努力」とは、これらの行動であり、その中に「嫌なことは嫌!」と表明して拒否する「市民的不服従」も含まれます。

 ただし、立憲民主党の立候補予定者という立場から最後に付け加えますが、悪法であれ最終的に廃止もしくは改正するには、国会で議決されねばならないのですから、自分と考えの近い議員を増やす努力も大変重要です。
 それを怠って、異なる考えの議員が過半数となれば、悪法を廃止・改正できないだけでなく、おかしな法律を次々とつくられてしまうことになってしまいます。

  2021年5月31日
#そが逸郎立憲民主党長野5区総支部長

* * * * *

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日米「同盟」の危険な一面

 一昨日(2021,5,24)の信濃毎日新聞4面に、大きくない記事があった。
 1958年の金門島砲撃事件の際の米軍の対応だ。中国に先制核攻撃することを要求し、「その場合、ソ連は核兵器を使って、ほぼ確実に台湾、場合によっては沖縄に報復する」と予想しつつ、「そうした報復も受け入れねばならない」と主張した、という。

 金門島は、中国本土の間近にあり、台湾が実効支配している。台湾に比べれば、ごく小さな島だ。そこに中国が砲撃したことをきっかけに、米軍は、たくさんの人が暮らす台湾と沖縄を、住民もろとも核戦争の犠牲にすることを「受け入れ」ようとしたのである。

 ずいぶん前に読んだ新聞記事を思いだした。
 冷戦時代の米国議会で、日本に米軍基地を置く意味が問われた際、いくつかの理由が挙げられたが、そのうちのひとつは、こういう趣旨だった。
 「核戦争となった場合、日本に米軍基地があれば、ソ連はそこも攻撃せざるを得ないので、米国本土への核攻撃を分散させ、薄めることができる。」

 米国にとっては、台湾も日本も、このような存在だということは、認識しておかなければならない。事と次第によっては、日本はおとりの標的として使われるのだ。そのための日米「同盟」深化なのかもしれない。米国は、きわめて冷徹に考えている。

 昔、中曽根首相は、米国に出かけた際、日本を「不沈空母」と語ったそうだ。確かに日本列島は沈まないだろう。人々の頭上で核ミサイルが何発さく裂しても、、、。
 米国は、軍事的にも台頭する中国を抑え込むために、日本などをさらに強力な「同盟」関係に引き込もうしている。日本は、よくよく検討して対応せねばならない。

 日米安保を即刻終了せよ、と言っているわけではない。
 米軍に依存しない独自の軍事抑止力を充実すべきだ、とも考えない。
 「米国に付き従ってさえいればよい」という思考停止はもうそろそろ卒業して、日本を含めて「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する」ことができるよう、本気の外交努力を開始すべきだと思う。

   2021年5月26日  #そが逸郎立憲民主党長野5区総支部長

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中川賢俊さんから、「いまひとつ信が置けない」とのご意見を頂戴しました。わたしの返信ともども、「意見交換のページ」に掲出しました。

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「改憲」への向き合い方 国民投票法改正案 

 一昨日(2021,5,11)、国民投票法改正案に賛成したことについて、立憲民主党のWEB会議がありました。
 この件では一部の他野党や市民グループから、また党内からも疑念の声が上がっており、それに応える必要があったのでしょう。実際、会議後半の質疑では、「協力関係にある党外の人たちから問い合わせや心配が寄せられており、それにきちんと答える必要がある」といった発言が相次ぎました。

 会議で説明された概略は以下のとおりです。

* 改正案に全面反対を貫けば、与党の数の論理で強行採決され、原案のとおり可決されてしまう。
* 大阪の「都構想」住民投票では、推進側が圧倒的なテレビCM出稿を行った。改憲においては金の力にものを言わすことができないように規制が必要だ。
* 広告規制を議論のまな板に載せられたことは、成果である。
* また、広告規制について「3年をめどに必要な措置を講ずる」という付則によって、改憲論議をしばらく停止させることができた。(これについては、自民党は違う解釈をしているのではないか、との別意見もありました。)

 説明を聞いて「なるほど」とも思いましたが、技術的戦術論的すぎて、言い訳がましく感じる人もいるだろうと感じました。
 「立憲民主党は政府与党にうまく乗せられて改憲議論のテーブルについたのではないか」、さらには「政府与党となんらかの取引をしたのではないか」とさえ疑う人はおられて、その人たちの誤解を解いて納得してもらうことが必要です。
 与党に対する戦術以上に、立憲民主党への信頼感を大切にせねばなりません。間近に迫る衆院選にむけて共闘・連帯を高めていこうとしている中、疑心暗鬼は困ります。

 そう考えると、国民投票法改正案への対処という局所的なテーマではなく、憲法改正について立憲民主党はどう考えるのかをしっかりと主権者に伝えることが重要だと思います。

 まず、自民党の改憲案には絶対反対であることを再度明言せねばなりません。
 特に、緊急事態条項は極めて危険です。首相が「緊急事態!」と宣言するだけで、国会とは関係なく内閣だけで法律と同じ効力を持つ政令を発することができます。ドラえもんの四次元ポケットのように、自分たちにつごうのいい政治の道具を思いつくままお手軽につくり出せてしまいます。ジャイアンがドラえもんを手下にするようなものです。
 9条をいじることも許しません。

 次に、憲法改正自体をどう考えるかを示さねばなりません。
 わたしは、今の憲法には統治権力を縛る上でゆるい部分があるので、そこはきっちりと締めなおした方がよいと思います。
 例えば、7条を根拠に首相が恣意的に衆議院を解散できるかのような勝手な解釈ができないようにせねばなりません。
 53条では、議院の要求によって内閣が臨時会を招集する際の期限を定めることが必要です。
 憲法裁判所も新設すべきだと思います。三権分立を十分に機能させるため、訴訟人の個別具体の不利益がなくとも、法制度の一般的違憲性を問える仕組みが必要です。

 しかし、これらにいつ取り組むかは、戦術的に慎重に考えねばなりません。
 自民党が与党でいるうちに改憲の議論を与党とすることは、自民党の改憲の土俵に引きずり込まれる危険があります。主権者に安心感をもってもらうには、「自民党とは、改憲の議論はしない」と宣言することがよいと思います。
 改憲は、政権交代を実現してから。
 それまでは、改憲が必要かどうか、今の憲法のどこがどう問題で、どう変えるべきか。あるいは、変えるべきでないのか。自民党とではなく、主権者と議論すべきです。
 主権者と熟議を重ねて、より深く正しい答えを探る。

 以上を明言し、そのとおりに実行すれば、主権者の信頼が得られると思います。

  2021,5,13
#そが逸郎立憲民主党長野5区総支部長  


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わたしが国旗に一礼しないわけ

2021年 憲法記念日の前日に

 中川村村長の時、「国旗に一礼しない村長」として話題になりました。村議会の一般質問で、こんな質問を受けたのです。
 「入学式や卒業式などの式典で壇上に上がる際、国旗に一礼しないようだが、それはなぜか?」
 理由は、日本を、誇りにできる国、外国の人たちからも尊敬され愛される国にしたいからです。

 解散総選挙が遠くないという状況で、この話題は、相手陣営から格好の攻撃材料にされるかもしれません。なので、先手を打って説明しておきます。

 国旗や国歌へ敬意を頭ごなしに強制することは、国をよくしていこうとする意欲を押さえつけることになります。
 当時、大阪で維新の橋下府政による国旗・国歌の強要が議論を呼んでいました。その背景があったので、もともと感じていた、国旗・国歌を強制する空気は嫌だという思いが一層強くありました。

 なんであれよくしていこうと思うなら、現状を客観的に分析して、あるべき理想と引き比べ、現状を理想に近づけていく方策を考えなければなりません。では、日本が国として目指すべき理想とはなんでしょうか。国民一人一人、いろいろな考えがあるかもしれません。しかし、それは、既に明解に文章化され定められています。
 日本国憲法前文です。
 憲法前文の末尾は、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」と高らかに謳っています。

 「崇高な理想と目的」の内容については、是非原文にあたってください。短い文章です。わたしなりに要約すれば、自分の国のことだけではなく、すべての人々が苦しみを免れて平和に暮らせる世界にするために、世界中のみんなとともに努力する、という誓いです。

 虚心に日本の現状をみて、この理想を実現しているでしょうか。
 たとえば、核兵器廃絶や気候変動対策への姿勢は、理想とは正反対だと言わざるを得ません。貧困や差別もほったらかしです。格差はますます広がっています。
 理想に向けて日本が克服すべき問題を課題として捉えることを、国旗国歌に黙って敬意を示せ、という空気は押さえつけることになります。

 「そんな理想など夢物語だ。厳しい客観情勢を見よ。もっと現実的になれ!」
 そういう声が聞こえます。しかし、現実に妥協的な「現実主義」は、現実をさらに悪化させます。

 理想の実現は簡単ではありません。しかし、理想を目指して努力することはできます。理想を実現していなくとも、日本が理想の世界のために真摯に努力することを明確に宣言し、言葉どおりに行動するなら、国民は国を誇りに思えるし、世界中の人々も日本を敬愛してくれるでしょう。
 目先の損得や都合に妥協せず、歯を食いしばって理想ににじり寄る方策を模索すべきです。

 国家は力をもっています。それを良い方向にも、悪い方向にも使うことができます。人々を救うことも、苦しめることもできます。人々の苦しみを増す国は悪い国であり、減らす国は良い国だと言えるでしょう。
 日本を誇りにできる良い国、世界から苦を減らす国にするために、現状を理想に近づけていきたいと思います。

 ところが、国旗や国歌を強要する空気は、国の現状を客観的、批判的に見ることを抑制します。
 小さな村の学校の式典にまで、残念ながらそういう空気は拡散しています。
 わたしが「国旗に一礼しない村長」として話題になった時、日本中からたくさんの葉書やメールが届きました。いくつかは、こんな主張でした。
 「村長たるもの、心の中で舌を出していてもいい。外見上では、国家への敬意を示せ。」
 心の中で舌を出しながら、外見だけの敬意を示すとは、何と失礼なふるまいでしょうか。

 わたしは、心から誇りにできる国にしたうえで、その誇りを示したいと思います。そもそも空気の圧力に服従させられるのは、気持ちのいいことではありません。
 外見だけの服従を要求する人たちは、国を良くしようとは考えておらず、ただ、人にいうことを聞かせたいだけなのです。

 空気の圧力に屈することは、憲法12条が国民に要求する「国民の不断の努力」を放棄することでもあります。

 従わせようという空気のあるうちは、国旗に一礼しないでいようと思います。「国旗に一礼しない総支部長」と呼んで頂ければと存じます。

  #そが逸郎立憲民主党長野5区総支部長

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子どもたちに関わる人たちにゆとりを!

 4/28、中川村にある『奏の森』で、小さな子どもを持つお母さん(お父さんも)のための「集いの広場」を運営するお二人と、助産師の資格を持つ方、子どもを育てる家庭と深く関わっておられる三人の皆さんからお話を伺いました。

「奏の森」で薪ストーブを囲んでお話会
「奏の森」で薪ストーブを囲んでお話会

 子供を抱える家庭は、やっぱり経済的に大変な状態が多い。お母さんも働きに出ざるを得ず、保育園に子どもを預けることになる。そうすると結構お金がかかり、差し引きを考えると、子どもとの時間を減らしてまでなんのために働いているのか、と思ってしまう。送り迎えも大変だし、子供が病気になったりすると仕事を休むことになるけれど、職場に迷惑をかけることになるので、申し訳ない。そんなことが続くと、辞めなくてはいけなくなる。非正規で働く人は、正規の人と、給与の面でも大きく違うけれど、なにかあった時のサポートの体制や、職場への復帰の面でとても差がある。シングル・マザーの人は、特に大変で、相談にやってくるゆとりさえない。(シングル・マザーの人たちのお話を聞けないかと尋ねましたが、そんな時間はないだろうと言われました。)

 子どもが大学生になると、授業料も昔に比べるとびっくりするほど高いし、都会での家賃や生活費もなんとかしなくてはならない。こんなふうだと、もう一人子どもを持とうとはとても思えない。大学にいっても、バイトに追われて勉強はそっちのけ、大卒の資格だけ買っているようなもの。それで卒業して就職しても、ブラック企業で鬱になったりする人も多くて、一体全体なんのために頑張っているのか、と思う。 専業主婦がいいとは思わないけれど、今は多くのおかあさんが、いっぱいいっぱいの切羽詰まった状態になっている。おかあさんがもう少しゆとりを持って子どもと過ごせるようにしないと、子どもたちがかわいそう。心の弱い子ども(おとなも)が増えてるように思うけど、子ども時代におかあさんとしっかり過ごせたら、今のようにはならないと思う。

 おかあさんだけでなく、保育士さんの仕事も、気の休まる時間がなくてゆとりがない。臨時の保育士さんも多い。子どもが好きで選んだ職業かもしれないが、そこに甘えてあまりにも多くを押し付けている。気持ちが壊れてしまう人も多い。人が確保できない状態。給料を上げて、志望者を増やし、ちゃんと勉強して資格を取った保育士が、じっくり子どもたちに向き合えるようにしないと。
 保健師さんも学校の先生も同じ。児童相談所も。子どもに関わる仕事は、すべて大変な状況に追い込まれている。結局、そういう無理はみんな子どもたちにいくことになる。子どもたちが健やかに育たないと、社会が大変になる。

* * * * *

 お話を聞いて、まず子ども手当をしっかりした額で復活することが必要だと思いました。少なくとも、子どもとの時間を大幅に切り詰めてまで働きに出なくてよいようにしなければなりません。大学まで含めて、教育の無償化も徹底すべきです。 そもそもは、子どものいる世帯だけでなく、すべての家庭が、ゆとりを持てる経済にしなければなりません。最低賃金を上げ(中小企業には必要な補助をして)、労働分配率を上げて、賃金を増やし、国民負担の比重を大企業や富裕層やグローバル企業に移して家計の負担を減らし、自分のため、家族のために使えるお金を増やさねばなりません。可処分所得を増やし、個人消費を増やして内需を拡大すれば、日本経済も調子を取り戻すはずです。
 短い労働時間で豊かな暮らしができるヨーロッパはどういう仕組みなのかも研究してみる必要があります。
 三人が口をそろえてベーシック・インカムへの期待を表明したのも意外でした。すでによくご存じのようでうれしく感じました。
 株価やGDPといった経済指標の数字ではなく、気持ちも含めたみんなの暮らしの質を高めていく経済でなければなりません。
 人を「使い捨て」みたいに利用するだけの「働かせ方」は許されません。志を持って働いて下さる方に、敬意をもって、存分に活躍してもらえるような仕組みを整える必要があります。

 肌寒い日でしたが、みっちりお話を聞けました。ゴールデンウイーク直前の平日、忙しい中、時間をとって下さった三人に感謝します。また、わざわざ薪ストーブを焚いてくれて、無農薬コーヒーと手作りクッキーを用意して下さった中川村の『F.O.P. 奏の森』にも御礼申し上げます。ありがとうございました。(写真の撮影もF.O.P.の杉浦さん)

*  *  *  *  * 

 『奏の森』では、以前にも、自然保育に取り組むおかあさん方からお話を伺いました。「学校教育が、子どもたちを枠にはめて都合よく使える既製品化しているようで、嫌だ。不登校になったら、行かなくていいよと言ってやりたい。」という意見が印象的でした。今の日本は、何もかも行き詰って、窮屈で、身体も心も縮めて生きていかねばならないようで、ちゃぶ台返しが必要ではないかと思います。「のびのび・はつらつ」こそが大事です。(この時の写真は、どれも子どもたちの素敵な笑顔が写っているので、掲載は控えます。)

 これからも、少人数のグループでいろいろなお話を聞けると嬉しいです。どうぞ、お気軽にお声がけくださいませ。

2021,4,29  #そが逸郎立憲民主党長野5区総支部長

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この記事は、『そが逸郎通信』で配信したものです。メール配信を希望される方がおられれば、ご連絡くださいませ。

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新型コロナに関して 街宣車アナウンスを更新

 新型コロナ対策があまりにもひどいので、街宣車で流すアナウンスを新しくしました。
 ♪のところには、サックス奏者・太田裕士さんが作曲して下さった『そが逸郎サウンドロゴ』が入ります。

1)皆さんこんにちは。こちらは、立憲民主党です。
 今お話ししている わたくしは、立憲民主党長野5区の総支部長・そが逸郎です。
 長野5区というのは、衆議院選挙の長野5区、すなわち、この伊那谷の選挙区です。
 伊那谷に暮らすみんなのため、また日本に住む人たちのためにしっかりと働かねばなりません。
 ご意見・ご批判をお聞かせください。

2)新型コロナウイルス、変異株が広がっています。
 大阪では医療体制がひっ迫し、インドではさらに大変な事態になっています。  
 伊那谷がそうなる前に、すぐに準備を整えることが必要です。
 国の責任で、お医者様、看護師さんが、負担なく大量の検査、処置ができるようにしなければなりません。
 オリンピックどころではありません。国民の命がかかっています。
 立憲民主党、そが逸郎です。

3)まず、いつでもだれでも無料ですぐにPCR検査が受けられるようにしましょう。
 症状の重さに応じて隔離できるコロナ専用施設を、突貫工事で用意します。
 大型エアテントのような仮設でかまいません。使われていない施設やスペースもたくさんあります。
 電話ボックス型の検査ブース、自動の検査装置、陰圧の個室隔離テントなどを大量に用意して、配置します。
 医療スタッフは急には増やせません。しかし、施設や設備は用意できます。
 立憲民主党・そが逸郎です。

4)新型コロナ対策でやるべきことは、自粛の要請でも、罰則でもありません。
 手厚い補償です。しっかり支援があるなら、ゆっくり家で休もう。みんながそう思えるだけの補償が必要です。
 生活支援は、単発ではなく、コロナが収まるまで毎月、継続して実施すべきです。
 財政赤字を恐れず、しっかり支援して、心配をなくす。
 生活保障が充実していれば、経済を廻す必要はありません。
 経済は後回し。まずはコロナを抑え込みましょう。
 立憲民主党、そが逸郎です。

ご意見お聞かせください。

2021,4,27     そが逸郎

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羽田次郎当選、チルドレン・ファーストの可能性

 参議院長野県補欠選挙、羽田次郎氏、投票箱が閉まると同時に当確がでました。
 長野5区において立憲民主党総支部長として選挙活動に参加したわたしからも、長野5区有権者の皆様に御礼を申し上げます。
 伊那谷市民連合はじめ市民団体の皆様、他野党の皆様、農協の皆様、労働組合・連合の皆様、ご協力を頂いたすべての皆様のご尽力のおかげです、本当にありがとうございました。感謝申し上げます。

 羽田二郎氏とは選挙カーに同乗し、伊那谷のあちこちでともに街頭演説を行いました。氏が繰り返し主張していたのは、チルドレン・ファーストという政治信条、すなわち「子どもたちの未来をすばらしいものにすることこそが、政治の一番重要な仕事」という考えです。 じっくり考えて、大変広い視野をもった深い着眼だと気づきました。例えば、地球温暖化や微小プラスチックゴミといった環境問題も、子どもたちの未来を考えれば、早急に手を打たねばならない課題です。原発の汚染水を海に捨てるようなこともできるはずはありません。ジェンダー差別、ジェンダー格差もなくさなければ、すべての子どもたちが元気に活躍する未来とはなりません。外国との関係も、戦略兵器を向けあって戦争を抑止するようなやり方ではなく、真の友好平和を築いてこそ、世界中の子どもたちが互いに交流協力することができます。

 チルドレン・ファーストに真剣に取り組もうとすれば、これらすべてが避けて通れない問題です。逆に言えば、子どもたちの未来という視点からすべてを考えることができるし、またそうしなければならないと考えるに至りました。
 さらに言えば、子どもたちの未来のために今なすべきことを考えれば、現在の日本政府のように、目先の都合、目先の損得、目先の経済ばかりに目を奪われ、右往左往することはありません。現状は、新型コロナ対策にせよ、オリンピックへの執着にせよ、原発にせよ、なにもかもがあまりにも後手後手です。チルドレン・ファーストに基づけば、将来を見据えた一貫性のある政策になります。

 なかでも特に緊急に取り組むべき問題は、貧困・格差です。
 今、経済的な理由で、夢を諦めさせられる子どもたちがとても増えています。お父さん、お母さんが、子どもたちの夢を応援してあげるだけの経済的なゆとりを失っています。最低賃金を上げ(中小企業にはその分の必要な支援を行い)、労働分配率を高めて、働く人の収入を増やさねばなりません。
 また、国民負担も、働く人の背中にばかりのしかかって、可処分所得を減らしています。国民負担は、大企業や株で儲けている富裕層,、タックス・ヘイブンを巧妙に使って税を逃れているグローバル企業などにしっかり担ってもらわねばなりません。
 そして、税金の使い道は、教育や医療や福祉など、暮らしを支えることに手厚く配分すべきです。働いて得たお金を、もっと自分たちのため、家族のため、子どもたちの将来のために使える経済にせねばなりません。家計がゆとりを持てば、個人消費が上がって、内需も拡大し、日本経済は元気を回復できます。チルドレン・ファーストの経済政策は、日本経済を復活させることにもなるのです。
 いつまでも解決できない少子化問題についても、根本にあるのは経済問題です。労働者派遣法が制定され、対象職種が広げられてきた結果、派遣労働や非正規雇用が大幅に増えてしまいました。低い賃金で安定的な将来見通しも持てない生活では、結婚して子どもを育てようという気持ちにはなれません。不安定な雇用形態はなくしていかねばならないのです。

 また、伊那谷にもたくさんある中山間地の農村集落における少子高齢化は深刻です。若い人たちが、農業を継いでも安定した将来見通しが立てられて、家庭を持ち子どもを育てられる農業政策が必要です。羽田次郎氏は、農業者個別所得補償制度を復活させ、対象品目をお米以外にも拡大することを主張していました。伊那谷においても、豊かな美しい自然の中で、子どもたちの元気な声がたくさん聞こえるようにしなければなりません。草刈りなどの協同作業にみんなで汗を流し、またお祭りで盛り上がり、慰労会で乾杯をするような元気な農村集落を未来に引き継いでいけるような農業政策、経済のしくみが必要です。

 子どもたちの未来のために政策を積み上げていく羽田次郎氏に大いに期待すると同時に、その取り組みにわたし自身も参加できるように頑張りたいと思います。

2021,4,25   立憲民主党長野5区総支部長 そが逸郎

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責任ある脱原発 東日本大震災から10年

 今日(2021,3,8)、立憲民主党枝野代表とのZoom会議がありました。日本各地の8人の総支部長との意見交換会です。
 わたしからは、こんな提起をしました。

・ ・ ・ ・ ・

 『原発をやめるのは簡単じゃない』という西日本新聞の枝野代表インタビュー記事が注目を集めました。これを読んで、「立憲民主党は脱原発の姿勢を後退させた」と受け止める人もいます。言い方を変えて頂きたい。例えばこんないい方ならよかったと思います。
 脱原発は、もはや国民的合意であり、揺るがしようもない大前提だ。その当否ではなく、それを達成する手段、道筋が問われている。脱原発を実現するには、代替エネルギーや放射性廃棄物の処理、関連する雇用をどう守るかなど、確かに課題は多い。専門家の意見を聞き、「原発は当面必要」と考える人たちとも熟議を重ねて、課題をひとつひとつ具体的、科学的に克服して、脱原発を実現する。これが、自公に替わって政権を担う立憲民主党の責任ある脱原発政策である。
 今後は、このような共感を集める表現で発信して頂きたいと願います。

・ ・ ・ ・ ・

 枝野代表の答えは、「まさにそれがわたしの言ったこと。新聞社の見出しは、予想とは違うものだった。ただ、りっけんが政権をとれば、脱原発が即刻実現する、と期待する人もいる。そのような誤解は解く必要もある。」というものでした。

 現状の原発に関する議論は、「原発は当面必要だ」という人たちと「原発はなくすべきだ」と考える人たちが、それぞれ勝手に主張しあい、水掛け論を続けている状況です。不毛と言わざるを得ません。これでは脱原発は進展しません。
 原発をすぐにはやめられないという人の理由もきちんと聞いて、熟議によって考えを深めあい、脱原発から生じる課題を明確化し、解決策を考えて、克服していく。それが立憲民主党の責任ある脱原発の立場だと思います。

 ご意見・ご批判、お聞かせください。

立憲民主党長野県総支部連合会副代表・第5区総支部長 そが逸郎


* たくさんのご意見を頂き、主なものをわたしの返信ともども掲出しました。
 長野県参院補選の市民と野党の政策協定を問題視する向きもあることから、すこし突っ込んだことを書いています。ご一読ください。
 https://bit.ly/3rLEMHU
 

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まっとうな政治の実現を、羽田次郎氏とともに

 昨日(2021、2,22)、マールマガジンに配信した記事です。ご批判ください。

* * * * *

 昨年末、立憲民主党参議院議員の羽田雄一郎さんが亡くなりました。新型コロナに罹りながら、すぐに検査してもらえなかったためです。残念でなりません。

 立憲民主党長野県連合会は、後任に弟の羽田次郎氏を選出しました。参議院選挙区第2総支部長として、24日に公認される予定です。
 長野5区総支部長のわたくしとしては、杉尾ひでや参議院議員、羽田次郎参議院第2総支部長の二人と力を合わせて、伊那谷に暮らす皆さんのため、さらには長野県、日本に暮らす人たちのためにしっかり頑張る所存です。

 今、私たちの前には、眼前の新型コロナのみならず、たくさんの深刻な課題が迫っています。
 温暖化など地球環境の破壊は、回復不可能な段階に差し掛かりつつあります。エネルギーをはじめとして、社会の仕組みを抜本的に切り替えねばなりません。資本主義そのものが制度疲労に陥り、限界に達しているとも感じます。時間の猶予はありません。

 グローバル資本は、国境を超えて貪欲に成長を目指し、世界を蚕食し続けています。
 国家がグローバル資本の前に膝を屈するような状況も見受けられます。資本に貢ぐために税金を徴収する集金装置になり下がったのか、とさえ思います。国民の暮らしのために、必要であればグローバル資本に対峙する気概が、国家には必要です。
 発達した(=末期の)資本主義の時代、世界の富は極端に偏在し、格差が拡大しています。勝ち組が勝ち続けるために、弱い人たちばかりがさまざまなしわ寄せを負わされています。
 日本においても、非正規雇用が増大し、シングルマザーなど、たくさんの人が苦しい生活を強いられています。先進国の中で日本だけ実質賃金は右肩下がり。国民の可処分所得・購買力が落ちて、個人消費・内需は低迷しています。
 労働分配率を上げ、所得の再分配を強化せねばなりません。ベーシック・インカムの可能性を研究することも必要だと思います。成長よりも分かち合いが大切なのです。

 かつてジャパン・アズ・ナンバーワンといわれた日本は、今ではあらゆる分野で後れを取っています。この歴史の曲がり角において、世界に正しい方向を提示する能力が、今の日本にあるとは思えません。
 その原因は、場当たり的な対応に終始し、先を読んで準備をすることを怠ってきたからです。その場しのぎのはぐらかしではなく、互いに批判しあい、議論を深めて、正しい答えを見つけ出す熟議が必要です。
 その前提には、当然情報公開がなければなりません。情報を公開して、みんなで真摯な議論を重ねて考えを深め、将来を見通した準備をする。これが「まっとうな政治」です。
 衆知を集めて熟議を重ねる以外に、今の世界史的な問題を乗り越えるすべはありません。

 もし今の政権に、その能力がなく、その気もないのであれば、交代してもらうしかないでしょう。
 羽田次郎、杉尾ひでや、そしてわたくしそが逸郎は、政権交代のために頑張ります。

立憲民主党長野県第5区総支部長 そが逸郎

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ハイテク農機は農村集落を救うのか 2021,1,24

   「ドローンやGPS搭載の自走農機を導入すれば、日本の農業の未来は明るい。」
 そんな記事を信濃毎日新聞でしばらく前に見た。宮下一郎衆議院議員の主張だ。氏は、自民党の農林部会長である。つまり、それが自民党の考えなのだろう。

 しかし、これを農業政策の柱に据えれば、かえって日本の農業は疲弊する。補助金をつけるのだろうが、農家も負担させられるに違いない。結局のところ、農業機械メーカーを潤すだけ。これまでと同じだ。省力化だけを推し進めれば、農村集落の高齢化・人口減は、ますます深刻になる。

 重要なことは、農業出荷額や生産性ではない。農村集落の暮らしを守ることだ。協同作業やお祭りといった伝統と文化を担う共同体を引き継ぎ、それをいきいき楽しいものにすること。農業以上に、農村集落を守りたい。中川村長として目指したことだ。

 先日、三上元さんから、「コロナ対策は、業界や企業ではなく、困っている人の暮らしを直接支援すべき」とのご意見を聞いた。((13) そが逸郎の「おはなし聞かせてください」 – YouTube
 農業も同じだ。農家への戸別所得補償や就農支援を手厚くすべきである。学校給食の食材に有機作物を補助推奨する制度によって、安全安心な食の提供を志す地元農家を支援し、有機農業を拡大することも、国内農業育成など、いくつもの成果をもたらす。農村での暮らしを夢見ながら、踏み出せないでいる若者も多い。兼業農家も大切だし、出荷せずとも農村集落の一員となってくれるだけでもありがたい。

 都会の大企業の目先の都合ばかりを優先する政治は終わらせて、誰もがのびのびと自分の生きたい生き方ができる社会を目指すべきだと思う。

2021,1,24     そが逸郎

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ベーシック・インカムとは 2021,1,11

 ベーシック・インカムについてお便りをいただき、説明する返事を書きました。多くの方にも読んで頂きたいと思い、ここに掲載します。
 ご批判お聞かせください。

* * * * * *

2021年1月11日

〇〇 〇 様

 お葉書頂きました。有難うございます。

 新型コロナが猛威をふるっていますが、具体的な備えがまったくなされていなかったことが露呈しています。国民への精神論的呼びかけばかりで、戦時中の日本もこうだったのだろうと想像します。「コロナとの戦争」という表現がありましたが、まさにそのとおりで、合理的に先を読んで準備することのできる指導部でないと、多くの国民の命が危険に晒される。政権交代が必要だと痛感しています。

 さて、ベーシック・インカム(BI)について葉書を頂きました。
 コロナ対策としての可能性や、また竹中平蔵氏による真意不明のBI提案などで、BIがまた少し注目されているようです。

 残念ながら、BIの定着した日本語はまだありません。わたしなりに定義すると、こうでしょうか。

 全個人を対象に無条件・無審査で定額の生活保障を定期的に継続して給付すること

 対象は、世帯ではなく、個人という点が、ひとつの味噌です。BIがあれば、家庭内暴力など高圧的な人間関係からの離脱が容易になります。
 逆に、何人かでそれぞれのBIを持ち寄って生活すれば、暮らしは楽になりますから、結婚する若者も増えるでしょう。生まれた子供にもBIは支給されますから(何歳からかは、制度設計による)少子化対策にもなります。いろいろな形の共同生活が増えると思います。

 失業保険のように、働く気があるけど仕事のない人だけが対象ではなく、働いて収入のある人、大金持ちの資産家も対象です。それどころか、働く気のない遊び人も対象です。それゆえ、生活保護のような、申請や審査は必要なく、プライバシーをあれこれ詮索されることもなく、役所の手間もかかりません。申請してから給付されるまでの待機期間もありません。大金持ちも初めから定期的にもらっているのですから…。BIは全員に等しく給付されます。

「なぜ金持ちにまで?」という疑問があるでしょう。けれども、税金は所得に応じてしっかり払ってもらえばよいのです。BIは、税制度の抜本的改革とセットです。

 働く気のない人にも給付する、という点に多くの人は反発するでしょう。しかし、今、競争社会のストレスで鬱になる人も多い。なにか全く新しいことを創造しようと呻吟している人も、周囲からは遊び人にしか見えないでしょう。お金にはならないけれど、社会貢献に邁進する人もいます。賃労働だけが労働とされる社会は歪です。
 反対に、大きな利益を上げているけれど、世の中に害をもたらしているとしか思えないビジネスもあります。
まっとうなBIは、生存のために不本意な賃労働に甘んじることから解放してくれます。生存のためではなく、みずから感じる意義、やりがいのために働くことが可能になります。
 また、近い将来、AIが多くの仕事を奪う、とも言われています。その状況になった時も、BIは救済策になるでしょう。コロナ対策にもなるはずです。

 それでも、「BIなんかを始めたら、みんなが遊んで暮らすようになる」と考える人もいます。実際、ヨーロッパでのアンケート調査ではそういう答えが多かったそうです。しかし、「では、あなた自身はどうしますか」という問いには、多くの人が、「今の仕事を続ける」、「別の仕事をする」と答えました。つまり、この心配は他人への猜疑心にすぎず、「他人は遊ぶだろうが、自分は働き続ける」のです。

 わたしは、人間は意義を感じられない生活には耐えられない、と思っています。BIを得て遊んで暮らしたとしても、せいぜい数年が限度でしょう。なにか自分なりに意義あることをやり始めまるはずです。

 BIの危険性を敢えて言えば、新自由主義者に悪用されることです。冒頭でふれた竹中平蔵氏の意図もこれではないかと危惧しています。つまり、名ばかりの低額のBIでセーフティネットは確保されたと強弁して、最低賃金や社会保障を廃止しようと考えているのかもしれません。
 本当のBIは、繰り返して申し上げれば、意に沿わない賃労働を辞めることを可能にする額でなければなりません。逆に言えば、人の嫌がる仕事の賃金は、BIによって正当に上昇するでしょう。

 結論的に言うと、BIは、人をしがらみから解放し、生きたい生き方を可能にしてくれるのです。贅沢を諦めれば、自分のやりたいことに時間をつぎ込むことができます。勿論、金もうけがしたければ、存分にそれに打ち込むこともOKです。また、農山村で農業などをして暮らしたいという若者が少なからずいますが、彼らの背中を押すことにもなるでしょう。地方の人口減に歯止めがかかり、農村社会に活力が戻ると思います。

 BIは、人生観や社会に劇的な変化をもたらすでしょう。大変革過ぎて何か副作用もあるかもしれず、慎重な研究が必要ですが、外国では実証実験なども行われており、わたしは大きな期待を感じています。

 またご意見お聞かせください。

そが逸郎

BIについては、以下の記事もご覧ください。
 https://itsuro-soga.com/2020/09/04/
 http://mujou-muga-engi.com/b-income/

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コロナ対策 こうあるべき 2021,1,12

 一昨日、立憲民主党長野5区関係の役員会で、「立憲民主党の新型コロナに対する主張が見えない」との批判があり、共感の声が上がった。

 当然のことながら、主張している。
 医療の最前線への支援、医療体制の拡充、飲食店などの事業者への支援、国民一般への生活支援をはじめ、教育関係など多岐にわたっている。
 詳細は、ホームページ(https://cdp-japan.jp/)のトップページの真ん中に、大きく掲載されている。
 国会でも提案、要求しており、HPには達成度の記載もあるが、マスコミにはなかなか取り上げられない。「HPを見てほしい」とお願いしても、立憲民主党関係役員はともかく、国民一般の方々には届かないだろう。地道な努力を重ねるしかない。

 立憲民主党の取り組みはHPを見て頂くとして、わたしの考えを申し上げよう。
◆ まず、コロナの抑え込みに全力で集中する。経済という二兎目は一旦忘れねばならない。
◆ 医師、看護師、公衆衛生の専門家から率直な意見を広く聞いて、熟議で対策を練る。
◆ 最悪のシナリオを想定し、それに備えた科学的具体的な準備を整える。
 例えば、コロナ専用検査施設、入院施設を日本各地に多数準備する。仮設の建物でもいい。最近は優秀なエアーテントもある。今の経済情勢で空いた施設や使われていない駐車場も、たくさんある。
 電話ボックス型の処置室や患者さん用個室陰圧テントを大量生産し、上記施設に設置し、隔離を徹底して処置のできる体制を作る。
 少ない医療者でも負担なく大量の検査と処置ができる機器でシステムを構築する。
◆ 支援については、国家財政を理由にして出し惜しみするようなことがあってはならない。
 飲食店などの事業者には、罰則規定ではなく、「これだけの支援があるなら、休んだ方が得だな」と思ってもらえる支援をする。迅速な対応のため、前年利益による自己申告をもとに支給する。コロナ収束後の確定申告で差額調整すればよい。
 国民一般にも、生活支援を単発ではなくコロナ収束まで定期的に給付する。その約束があれば、国民は安心できる。

 「多額の累積赤字がある中で、そんな大盤振る舞いはできない」という反論があるだろう。
 しかし、この緊急の状況で、国民生活を支えるために必要な支出を出し惜しみすることは許されない。平時に無駄遣いをしてきた結果が、今の財政赤字なのだから、それを理由に国民への支援を絞るのは筋が通らない。
 また、これは、立憲民主党の中でまだ広く共有されてはいない考えだが、「歳入で歳出を縛ろうとするこれまでの財政規律の考え方は、間違いだ」とする学説が認知されつつある。過度なインフレにならない限り、必要な歳出は、歳入を超過してもやるべきだという考え(現代貨幣理論MMT)だ(詳細は、立憲民主党長野5区HP https://itsuro-soga.com/2019/12/21/ に)。
 この緊急状況においては、MMT理論や金利のつかない公共貨幣(政府通貨)の活用も考え、十分な支援と対応をするべきだとわたしは思う。
 

2021,1,12 #そが逸郎立憲民主党長野県第5区総支部長  

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新年の思い

 明けましておめでとうございます。
 新型コロナや経済的理由などで、つらい状況に苦しんでおられる方々にとって、明るい展望が実感できる年となる事を、心より祈念いたします。

 今年は、衆議院改選があります。わたしも、明るい展望の一助となれるよう、努力を積み重ねてまいります。ご意見ご批判を頂ければ幸甚です。

 さて、新年の思いとして、「全国首長九条の会ニュース」に送った原稿を掲載します。「全国首長九条の会」は、「憲法九条を堅持すべき」と考える市町村長(現職・元職)の組織です。東北地方の市町村長を母体に、全国組織に拡大しました。わたしは、設立当初からのメンバーです。

  * * 憲法前文の「崇高な理想」で世界をリードする日本に * *

 アメリカファーストを標榜したトランプ大統領は、世界への責任を放棄したまま去ることになった。中国も、自由や自治を本土に拡散させないため、香港への圧力を強めている。二大国が理念に背を向け、利己的な本性を露わにしているのだ。

 一方、話題の『人新世の「資本論」』は、議会制民主主義ではなく、市民の直接参加型の抗議運動を高く評価している。現に日本の外ではそういった活動が活発だ。
 すなわち、国家の存在意義が低下しているのである。
 「メッキが剥げただけで、国家とはもともとそんなもの」、そういう冷めた見方も可能だろう。しかし、現状においては、国家が法律や条約を適切に制定し運用しなければ、温暖化防止であれ、核兵器廃絶であれ、実効性のある対策にはならない。地球全体の未来を考えて行動する国家が現れないと、世界はますます混迷に陥る。
 そこで思い至るのは、日本国憲法前文だ。日本国民が、国家の名誉にかけ、全力をあげて達成すると誓った「崇高な理想と目的」とはなんだったか。
 「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」という法則に従い、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」し、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する」。そんな世界を実現するために真摯に努力する。日本国民は、そういう国家に日本を変えねばならないのだ。
 主権者としての新年の思いである。

* * *

ご意見・ご批判をお聞かせください。
  2021、元旦   立憲民主党長野5区総支部長 そが逸郎 

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動画/飯田での街宣 2020,12,21

 動画をYouTubeに掲出しました。ご覧になってください。

 https://youtu.be/BkU8FP1BQc8

 杉尾秀哉参議院議員と二人でしたが、データ容量の関係で、わたしの部分だけ紹介します。申し訳ありません。

 先進国の中で、日本だけ実質賃金が下がり続け、庶民が自分や家族のために使える可処分所得は減少しています。特に若い人たちの多くは、自分一人生きていくのが精いっぱい、結婚して子供を育てることなど夢物語の状況に置かれています。地方、特に中山間地の集落では、高齢化が進み、集落の維持が困難になっています。

 しかし、これは、けして時代の必然の流れではありません。

 政治が、都会の大企業の目先の都合ばかりを優先し、地方や農林業を犠牲にし、若者を非正規雇用などで使い捨てにしていることが原因です。
 国民負担を庶民にばかり押し付けて大企業やお金持ちを優遇する政治を終わらせて、みんなの暮らしにきちんと目を向けるまっとうな政治に変えれば、地方を含めて日本全体を元気にすることができます。

 自分たちの利権のために政治を操っている連中から政治を取り戻すためには、みんなで選挙に行けばよいのです。そうすれば、みんなのための政治が実現できます。

 ご意見ご批判をお聞かせください。

2020,12,24   そが逸郎

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『ママがイキイキと輝くために~』 新作パンフを紹介します。

 幸せな結婚生活を夢見ていたのに、日々の暮らしの大変さに追われているママたちに読んでもらいたい。
 ご意見お聞かせください。

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国家とグローバル民主主義

2020,12,14  そが逸郎

 国家とグローバル民主主義について考えています。

 国家と政党と主権者のあるべき関係。また、グローバル資本やグローバル民主主義と国家の関係。あるいは、国家をどのようにして克服、あるいは変革すべきか。

 もともと問題意識はありましたが、『人新世の「資本論」』(斎藤幸平・集英社新書)を読んで、あらためて気になりました。

 『人新世の「資本論」』については、既に紹介していますが( https://itsuro-soga.com/2020/11/10/ )、再度かいつまめば、晩年のマルクスの、コモンに根差した「脱成長のコミュニズム」こそが資本主義が今直面している困難を克服する道だと主張しています。
 そして、その実践については、コモンを共同で自治管理し、連帯して資本に対抗する市民の参加型民主主義の取り組みに期待が寄せられています。

 しかし、その一方で、国家に対する期待は、ほとんど感じられません。「気候変動の対処には、国家の力を使うことが欠かせない」とは書いています。改めて精読する必要がありますが、多分国家への肯定的評価はこの一文だけだったと思います。

 確かに国家というシステムの弊害は少なくありません。
 先進国と途上国の格差がいつまでも解消されないのは、前者が後者の資源や労働力を安く買いたたき、弱みにつけ込んで利用し、また必要不可欠なものを囲い込んで高く売りつけているからでしょう。専制的な支配者は、国家という形式をとることで、独占した暴力を合法的に思うままに使うことが可能になります。さらには、外国からの批判に対して「内政に干渉するな」と反論することも。また、資本に都合のいい法律・制度を定め(例えば、廃棄物処分の基準を緩くして外国の廃棄物を大量に受け入れ、ずさんな処分投棄をするなどして)私腹を肥やす例もあります。税率を極端に下げて、外国資本に合法的脱税の手段を提供することもできます。為政者は、地位を保つために、しばしば外国への憎悪を煽り、また現実に戦争を起こします。

 そもそも国家は、資本主義が発生して以来、自国の資本が富を蓄積することを助け促進するシステムであり続けてきたと思います。また、消費者に喜ばれる商品サービスを提供して対価を得るビジネスではなく、国家に税金から支出させて安直に儲けようとする「ビジネス」も近年目立ちます。
 そして、今や、資本はグローバル化し、資本関係や提携関係でネットワークを作り上げ、世界をすっぽりと覆っています。しかし、これまで資本に仕えてきた国家は、資本がグローバル化してもこれまでの思考・行動パターンを踏襲しています。水道などの公共サービスを民営化したり、日本政府が種子法を廃止し、種苗法を改悪して自家採種を難しくするのも、グローバル資本への便宜です。グローバル資本は、国家を使って水や種子といったコモンを自分たちしか提供できない希少なものにさせて、高く買わせようとします。国家は、グローバル資本の方に顔を向け、グローバル資本が国民から富を吸い上げることを手助けしていると考えざるを得ません。

 国家の顔を、資本ではなく国民の方に向けさせねばなりません。あるいは、国家ではない別のシステムがあり得るのかもしれません。しかし、だとしても、そうするためには、暴力革命を起こすのでもない限り、国家という制度の内側から変えるしかありません。国家を是正、克服するために、国家というシステムの力を使わねばならない。これが難題です。

 あるいは、『人新世の「資本論」』が危惧する温暖化、もしくは世界戦争などによって今の国家システムが破綻し、p118 などに示された「四つの未来の選択肢」の第4象限「野蛮状態」(統治権力が弱く不平等な状態)に陥って、その混乱の底からの再生として、よりよい仕組みが創造されることになるかもしれません。しかし、カオス状況が長く続いた後も専制体制になる可能性が高いだろうし、野蛮状態に陥らずによりよい状況に移行する方法を考えねばなりません。とすれば、我々は、国家というシステムがあるうちに、国家システムの中から新たなシステム(国家システムの改善であれ、国家に替わるシステムであれ)を生み出す必要があります。

 しかし、この点に関しては、『人新世の「資本論」』は、残念ながらほとんど参考になりません。コモンに立脚する参加型民主主義が、いかにして国家を変革、または超克するか。その道筋についての議論は不十分です。

 『人新世の「資本論」』は、選挙によって改革を実現しようとしても、議会政治は資本の力に直面すればそれを突破できない、と述べています。そのうえで、既存の議会とは別の、市民が自主的に立ち上げる市民議会に期待しています(p213~)。
 しかし、異議申し立ての直接抗議運動だけでは、限界があるのではないでしょうか。それは、国家の外側での運動であり、国家の力を使っていないからです。国家の外からの圧力に加えて、国家の内側から国家というシステムを使って国家に変革を起こそうという力が伴わなければ、変革はおそらく実現できません。将来においては、国家システムのない世界があり得るのかもしれませんが、その場合でも、一旦は国家というシステムを使った国家変革・国家解体というステップを踏むことになると思います。(暴力革命や温暖化等の影響で国家システムが崩壊するのでなければ。)

 国家変革のための国家システムとして考えられるのは、議会でしょう。そして、議会において国家の進路を定める上で、政党の役割は重要です。

 先に『人新世の「資本論」』について考えた際( https://itsuro-soga.com/2020/11/10/ )には、政党を、主権者に育てられ調教されて、主権者のために国会でバトルするポケモンとして位置付けました。主権者の意向をうけたポケモンたちの議会でのバトルによって必要な変革を実現することが、あるべき姿だと考えます。しかし、現実には、政党ポケモンは主権者の手を離れ、勝手にバトルをし、大方の主権者も政党を自分たちのポケモンとは思っていないのが実情です。(利権のために政党を使おうとする一部の「主権者」は、多額の政治献金をし、組織を上げて特定のポケモン政党を飼いならし、思いどおりに成果を上げていますが。)

 もやもやした思いを持ちながら、ジョシュア・ウォンの『言論の不自由: 香港、そしてグローバル民主主義にいま何が起こっているのか』(河出書房新社)を読みました。香港の一国二制度を守ろうとする運動の中心にいる若者によるドキュメントです。
 返還前の香港にしばらく暮らしたものとして香港の現状は気になります。すでに思うところを述べた一文( https://itsuro-soga.com/2019/08/29/hello-world/ )を書いていますが、それへのご批判も頂いたので、彼の本は読まねばならないと思いました。

 香港の自治を維持しようとする民主派は、街頭デモや広場などの占拠といった非暴力不服従の抵抗運動だけでなく、仲間を議会に議員として送り込むことにも多大のエネルギーを注ぎました。大規模デモで逃亡犯条例改定を撤回させるという大きな成果もあげましたが、せっかく当選させた議員の資格をはく奪され、さらに今月に入ってジョシュアたちは禁固刑を宣告されました。香港を本土並みの統制下に置きたい北京政府からの圧力は頑強です。香港の自由が本土に拡散することを恐れているのでしょう。香港への厳しい対応は、北京政府の弱さと度量のなさの表れです。
 ジョシュアたちの頼れる寄る辺は、外国(特に米国)からの共感・支援です。彼ら民主派の若者の思いは、確かに一途で純粋です。ただ、同書「第3幕」で、中国の戦略を警戒する一方で、米国を単純に美化する見方は一面的だと言わざるを得ません。
 米国は、第二次世界大戦後も世界各地で戦争や軍事行動を繰り返していますし、アブグレイブやグアンタナモを取り上げずとも、例えば、日米地位協定において、日本の法律も憲法さえも蹂躙していることは明らかです。そんな米国を民主主義の守護神であるかのように考えるのは、ナイーヴすぎると思います。
 勿論米国にも、市民の自由や権利が世界中で尊重されねばならないという純粋な思いから活動している人やグループはいます。しかし、米国政府はそうではありません。一連の「カラー革命」の後ろには、米国のCIAなどの、状況を流動化させたい思惑があったという見方は消せません。

 ただ、これは米国だけのことではありません。中国も同様のことをしているでしょうし、ロシアも同じです。自国の利害のために様々な思惑でプロパガンダや地下工作をしています。大国だけではなく中小の国も、程度の差はあれやっていることでしょう。

 民主的自治を手放すことはできないという香港の若者の思いを、米国は、中国を揺さぶる材料として利用したいと考えているのは間違いないと思います。そもそも、一国二制度そのものが、香港を取り戻したい中国と、中国に政府に抵抗する「民主化」の種を植え付けたい英国はじめ西側の、同床異夢の思惑が練りこまれた妥協点だったのかもしれません。
 ジョシュアのような自由や自治を求める純粋な思いは、大国間のつばぜり合いの真ん中に挟まれています。ジョシュアが純粋でも、そのまわりに大国の思惑が渦を巻いている。では、我々はどうするべきか。

 そんなことを悩んでいる中で、国家の役割について、一つの可能性を思いつきました。 資本主義の行き詰まりを克服するために『人新世の「資本論」』が期待する「市民の参加型民主主義」や、香港のジョシュアたちのような自由と権利を確保しようとする闘い、その他多くの非暴力不服従の抵抗運動を、自国の利害のために利用するのではなく、理念として、自国の利害とはかかわりなく支援する国があるべきではないか。
 そういう国に日本がなれたら、すばらしいことです。良心的抵抗者の寄る辺になるべきだと思います。

 たやすいことではありません。自由や権利や自治、民主主義の寄る辺になるということは、自国においてまず、それらを厳格に尊重せねばなりません。そして、これらに関して地球のどこであれ問題があれば臆せず堂々と指弾する。そのためには、これらの問題だけでなく、地球温暖化対策、原発・核兵器の廃絶、プラスチックなどの廃棄物処理、貧困や格差の撲滅、途上国の人たちを搾取せず迷惑を押し付けない公正な貿易などについても、揚げ足をとられないように自らを律する必要があります。そして、国内だけではなく、地球全体で、温暖化対策をはじめとして環境が守られ、途上国の人たちが搾取されず健康で文化的な生活が送れるように、真摯な取り組みを重ねるのです。

 言い換えれば、軍事力や経済力でまさる大国に対して、理念の力で対抗できる国になるということです。
 要は、日本国憲法前文で、日本国民が国家の名誉にかけ全力をあげて達成すると誓った「崇高な理想と目的」、すなわち「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において名誉ある地位を占」め(=その取り組みの先頭に立ち)、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する」世界の実現のために努力するのです。
 いかなる国であれ、資本であれ、この理想に敵対するものは、臆することなく批判せねばなりません。軍事力による恫喝や経済的制裁による強制は、相手国民を人質にする恥ずべき行いとして自らに禁じ、理念において間違いを批判する。

 空想的理想論だと笑われるでしょうか。国際的な政治・経済の競争の中で、どの国も生き残りをかけて必死に闘っているのに、その厳しさを知らない空理空論であると。
 しかし、その競争は、結局のところ資本間の支配力拡大競争であり、資本に癒着した利権の生存競争ではないでしょうか。その結果、温暖化をはじめとして、地球の環境は破壊され、「途上国」の人たちのみならず、「先進国」の市民も巻き添えにされ、さらにはすべての生物の生態系までが破壊されようとしています。

 この状況に異議を唱える市民の声に応えて立ち上がる国家が必要です。

 軍事的・経済的大国や巨大資本に対してそんなことができるのか、という意見があるかもしれません。しかし、あらかじめ自ら考える理念を強固に鍛え上げ、世界に堂々と明示し、それにふさわしいふるまいを続けることで、それは可能になります。世界市民の共感と敬愛を集め、国際世論を味方にするのです。そうなれば、大国も、露骨な軍事的・経済的圧力はかけにくくなります。国際世論の批判を無視することはできないでしょう。なにか仕掛けてくるとすれば、暗殺・冤罪のような非合法な裏工作もあり得ますが、まずはプロパガンダで日本国内に反対世論を惹起しようとするでしょう。残念ながらそれに操られる人もでてくるでしょう。いつの時代も理想よりも自分の目先の利得を優先する「現実」派はいます。そちらの方が多いかもしれません。人は誰もが、凡夫であり、目先の損得に過敏に反応します。となるとここでも、事態を決するカギを握っているのは、国民=主権者ということになります。

 話は、振出しに戻りました。
 経済的利益だけを目指して激しい競争を繰り広げる資本主義が突き当たっている問題を克服するために国家を変革するにも、変革した国家を維持し国家の力を正しく地球環境や人権のために発揮させ続けるにも、主権者=国民が揺るぎないスタンスを堅持することが重要だいうことになります。プロパガンダで目先の損得や不安を煽られず、冷静に判断できる能力が必要です。

 ポケモンである政党が、飼い主である主権者・国民にそれを要求するのは僭越です。しかし、政党とて主権者・国民の一員です。そう捉えれば、政党も、みずから主権者・国民の一員として人権や環境のために働くべきだし、他の主権者・国民と呼応して、世界中の人権・環境のために闘えと飼い主たる主権者に命じられて頑張るなら、本望であるはずです。(政治家もまた凡夫。票をもらうために腰砕けになる可能性もありますが、政党の内部でそうならない努力をすることが必要だし、そうさせない主権者の強い声も必要です。)

 わたしも、日本を世界中の人々のために全地球的な規模で人権や環境を守る先兵とするために、働きたいと思います。
 
 ご意見ご批判をお聞かせいただければ嬉しいです。
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政党に出番は? 『人新世の「資本論」』

2020,11,10

『人新世の「資本論」』(斉藤幸平著・集英社新書)を読みました。
 斬新な視点からの大変刺激的な本です。
 しかし、国家に対する評価は、概して否定的であり、特に後半では、政党に役割はないのか、という問題意識が沸きました。破滅に向かう人類史を転換する上で、市民運動や自治体の取り組みが期待されているのに比べて、国家や政党への言及は多くありません。特に政党についてはまったく触れられていなかったと思います。
 こんな印象を持ったのは、政党の一員になって以来、多くの主権者の政党というものに対する否定的な態度を思い知らされているからでしょう。

 この本の要点はこうです。
 人類の活動が地球環境に甚大な影響をもたらしている。
 地質時代として、「人新世」に突入したと認識すべきだ。
 マルクスが晩年にたどり着いたコミュニズムは、脱成長のコミュニズムであり、これこそが「人新世」の危機を救う。
 このように主張しています。

 わたしなりに要約してみます。

 資本は、みずからの価値を高め、増殖していこうとする。そのために、できるだけ多く生産し、消費させようとする。また、ブランド化や囲い込み(一部の人以外の排除)によって、希少性を捏造し、商品価格を吊り上げる。そのようにして利益を増大させようとする欲望が資本主義の原動力だ。資本主義と経済成長は、一体である。
 資本主義は、経済成長のために歪みを生み出さざるを得ない。しかし、それを外部(植民地や途上国)に押し付けることで、「先進国」から見えなくしてきた。資本主義が生み出す歪みとは、資源の乱獲、大量の廃棄物生成、低賃金労働、劣悪な労働環境などである。しかし、肥大してグローバル化した資本主義は、歪みを押し付けるべき外部をもはや失って、限界に到達している。(例えば、非正規雇用の増大などの格差は、これまで外部でおこなってきた労働搾取を、先進国内部でやるほかなくなった結果だと思います。)
 あまたある歪みのなかでも、気候変動は、外部に転嫁できない課題であり、これまで資本主義のうまみだけを堪能してきた先進国も逃れることはできない。行き詰まった資本主義は、地球環境と人類文明を破綻させようとしている。

 さまざまな対策が提起されているが、どれも気休めのアリバイ作りにすぎず、本気ではない。たとえば、国連が提唱するSDGsは、危機に対処している気にさせてくれるだけで、罪の意識をしばらく忘れるためのアヘンにすぎない。なぜなら、SDGsをはじめとしてさまざまな取り組みが提唱されているが、それらはどれも、経済成長を前提としているが故に、資本主義の枠の中にあり、それが生み出す歪みを超克できない。

 これまでマルクスの思想とされてきた伝統的コミュニズムも、経済成長を目指す枠組みの中にあった。マルクスのコミュニズムも、当初は、生産第一主義、進歩史観・ヨーロッパ中心主義の考えだった。しかし、資本論第一巻を書いた後、マルクスは、それらを脱却し、脱成長のコミュニズムに到達した。その転回をもたらしたのは、ロシアの農民共同体ミールやゲルマン民族のマルク共同体などを知ったためである。このことは、これまで注目されていなかったが、残された手紙やノートを精読すれば、見えてくる。しかし、この晩年の着想はあまりに画期的、根本的な転換であり、マルクス自身、著作にはできなかった。盟友エンゲルスも理解できず、エンゲルスが編集した資本論第二・第三巻は、経済成長主義の中にとどまっている。その結果、これまでのコミュニズム解釈は、資本家に替わって官僚が成長を目指す国家資本主義とでも呼ぶべきものに留まるしかなく、破綻した。今までコミュニズムと呼ばれてきたものは、いうなれば資本主義の一変種にすぎなかったのだ。

 それに対して、マルクスが晩年に到達した脱成長のコミュニズムは、資本主義を根底から覆すものである。
 資本主義の歴史では、人々が共同管理してきた共有財(コモンズ、例えば入会地)を、産業革命以来、資本が一貫して囲い込み、そこから人々を排除してきた。共同管理のもと誰もが無償で潤沢に利用していたものを、資本は囲い込み、独占して利潤追求に利用してきた。必要を超えて生産しつつ、広告やブランド化などによって人工的に希少化して高価格をつけて販売し消費させてきた。それによって数字の上の経済成長が生まれるが、それとともに、格差や貧困、環境破壊も生み出す。
 今や地球環境は、ポイント・オブ・ノーリターンに差し掛かっている。マルクスが最後に到達した、脱成長のコミュニズムこそが脱出口になる。コモンズを資本から奪還し、資本がでっちあげた希少性に踊らされず、もともとあった潤沢さをみんなで共有する。商品価値ではなく使用価値のために働くようになれば、ブルシット・ジョブ(無用なクソ仕事)はなくなり、労働時間は短縮される。これによって、利益のために生産と消費を拡大することはなくなり、環境に負荷を与えず、平等で、真に潤沢な社会が実現される。

 そして、そのためのさまざまな実践が紹介されています。
 たとえば、わたしも理事の末席にいる協同総研が法制化に取り組んできた、協同労働の協同組合(ワーカーズ・コープ)が取り上げられていて、うれしく思いました。(資本主義社会の企業が、株主などによる所有と、経営と労働の三つに分離されているのに対して、ワーカーズ・コープは、所有も経営も労働もすべて労働者の組合が行うというあり方です。)
 黄色いベスト運動やサバティスタ、国際農民組織ヴィア・カンペシーナのような市民の抵抗活動、またバルセロナなどの自治体の取り組みを、脱成長のコミュニズム実現に向けた模索として、著者は高く評価しています。

 しかし、このような取り組みだけで、気候変動の危機に対処することはできるのでしょうか。本の前半で危機の切迫度が強調されているだけに、そう感じざるを得ません。スピードが足りないだろうと思います。利益拡大を目指す世界中の株式会社を、一挙にワーカーズ・コープに置き換えることはできないでしょう。
 人新世を改める大きな方向として脱成長の考えは正しいと思います。しかし、それと同時に、著者が評価していない技術革新や他の「経済成長の枠内の」対策なども積み上げねばならないと思います。

 さて、では、冒頭に書いた問題意識です。
 この本の全体的なトーンは、国家に対しては否定的です。
 確かに、国家は、資本を支え、資本と手を携えて成長を競い合ってきたと言えるでしょう。国家は、資本が利益を追求するための環境を整え資本主義を支えるシステムの一部分である、と捉えることも可能です。最近では、国家は、グローバル資本によって、国民から利益を吸い上げるための集金装置として使われていると思うこともあります。そして、そのことに国家は抵抗していないようにも感じます。

 しかしそれでもなお、国家を使わねば、必要な変革は実現できないのではないでしょうか。
 国家は、暴力を独占し、徴税し法規制を強制する力を持っています。国家を置き去りにしたままでは、迅速に秩序をもって必要な変革を実現することはできないでしょう。「3.5%の人々が立ち上がれば、世の中は大きく変わる」と著者は言っていますが、気候変動に関しては、国家の姿勢を変えることで、世の中を変えるしかないのではないでしょうか。著者自身、「気候変動の対処には、国家の力を使うことが欠かせない」と書いています。そのためには、民主主義の刷新がかつてないほど重要だとも言っています(p355)。つまり、人々の力で民主主義を刷新し、それによって国家を変え、国家の力を使って危機に対処せねばならないと考えます。

 国家の考え方、方針を変えねばなりません。国の方針を変更し、それを広く普及させるには、法制度を変更せねばなりません。それは、国会議員(lawmaker)の役割です。となれば、多数の国会議員を擁して法案を成立させようとする政党は、やはり重要です。
 ただしそれは、これまでとおなじように重要だということではありません。刷新された民主主義のもとでの新たな役割を果たすことが重要になります。すなわち、政党の様態も刷新されねばなりません。3.5%の人たちが先頭に立ち、人々が大きなうねりを作り上げる。政党は、そのうねりに応えてそのうねりとともに国家を変えるために働くのです。

 これまで政党は、「自分たちの手で国を変える」などと高揚しながら、現実には、政権保持(奪取)、議席確保(獲得)のために、権謀術数に走り、数合わせの談合を繰り返し、選挙の時だけ主権者におもねてきました。それによって、政党に愛想をつかしている主権者も多くいます。そういうあり方ではなく、主権者に使われる政党にならねばなりません。わたしが以前からいっている、ポケモンとしての政党、飼い主である主権者に育てられ、調教され、主権者に命じられ主権者のために闘う政党というあり方です。

 しかしながら、そういう状況を、政党の側からどうやってつくっていくべきか、わたし自身まだよく分かっていません。人々のうねりを待ってそれを受け入れ、対応するだけでいいのか。あるいは、こちらからもっとアジテーションすべきなのでしょうか。
 主権者に使われる政党といっても、主権者からの評判を気にして、そのつど言説を変えるのではないでしょう。それはこれまでのやり方ですし、主権者を敬っているように見せながら、実は見下しています。そうではなくて、主権者ときっちりと議論することが、すくなくとも必要ではないかと感じます。

 結論のない尻切れトンボになりました。
 残念ながら、現時点で書けるのはここまでです。
 ご意見お聞かせいただいて、主権者と政党のあるべき関係について、さらに考えたいと思います。

そが逸郎 立憲民主党長野5区総支部長

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市民と野党の共闘@飯田市エスバード

昨日の集会の様子、わたしの部分だけで申し訳ないですが、動画で報告します。

230人の方々が来てくださり、大変盛り上がりました。主催の伊那谷市民連合はじめ、皆様に感謝いたします。

「自民党は、どぜいとる!」
なんとかせねば、という思いがますます高まっています。

https://www.youtube.com/watch?v=gUbsW-72d0w&t=180s

2020,9,28

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リニア新幹線について

 一昨日(2020、9、13)、飯田市龍江で行われた「リニア発生土置き場候補地、現地見学会」に参加しました。

 清水沢川を工業団地の脇から下流にかけて埋めるという計画で、長さ約600m、巾105m、高さ35m、搬入量は、約40万立米だそうです。

 『龍江の盛土を考える会』では、大規模な土砂流出が発生することを危惧していました。気候変動によって豪雨災害の頻度が上がっている中、下流域にはいくつもの集落があり、万一の場合には、甚大な被害が心配されます。地形の特徴から、地震などの際には、表層ではなく、底面から崩落する危険性もあるようです。
 地元へのメリットは、工業団地につながる道のカーブが一か所改良できること以外には見当たらず、盛土によってできる平坦地の利用計画もないのに、なぜ前のめりになるのか理解できない、と「考える会」では首をかしげています。

 中川村長の立場でJR東海と交渉したわたしとしては、工事終了後の維持管理を誰がするのかが明確になっていないようであることも気にかかりました。
 盛土の下流部は、安定勾配1対1.8~2.0の傾斜にして、崩壊を防ぐための大規模な構造物は造らないとのこと。そうであれば、小規模な土砂流出などが日常的に発生するであろうし、大規模な崩壊を防ぐにはこまめな維持管理がますます重要になります。それを誰がするのか。
 中川村長時代に聞いたJR東海の回答は、「安全性を納得してもらった上で、引き渡す」というものでした。つまり、「引き渡し後の責任は、引き受けた自治体にもってもらう」という意味です。
 JR東海の考え方が変わっておらず、また地元メリットが大きくないのであれば、飯田市は慎重に考えた方がよいと思います。

計画されている盛土の末端からすこし下流の場所。コンクリートの柱は三遠南信自動車道の橋脚。

 
しばしば質問を受けるので、リニア新幹線についての考えも書いておきます。

 大都市を点と点で超高速で結ぶというビジネスモデルは、もはや古臭いものになりつつあると思います。例えるなら、大艦巨砲主義の象徴、航空機に沈められた戦艦大和のように。完成の見込みは予定よりずれ込むようですが、その時にはどのように受け止めらることになるのでしょうか。

 また、昨日の見学会にも来ておられた地質学の松島信幸先生がいつも仰っておられるように、山に大きな穴をあければ、甚大な結果をもたらしかねません。動植物や地域住民の暮らしへの影響も心配です。
 中川村長の当時、工事の進め方について、住民の生活環境を損なわないようJR東海に繰り返し求めましたが、いつも杓子定規かつ事務的な回答で、住民の暮らしへの影響に気を配ろうという姿勢は感じられませんでした。沿線各地で住民が我慢を強いられることになりはしないかと危惧します。

 加えて、これはJR東海にとってはよけいなお世話かもしれませんが、リニア新幹線の採算性も心配です。もともといぶかる声がありましたが、今、新型コロナの影響で、新幹線の利用は減っています。ITを使ってリモートで仕事をすることが新しいスタイルとして定着していく中、今後の事業見通しを再検証する必要があるのではないかと思います。
 JR東海が単独で独自事業としてやるのならいざ知らず、安倍政権は、大阪への延長にむけて、巨額の国費も投入するとしました。甘い見通しによってJR東海の経営が行き詰って、投じた税金が無駄になる事がないように、きちんと検証しておくべきでしょう。
 リニア新幹線の成否のみならず、例えば飯田線のような今ある路線までが、経営不振を理由にして、駅の無人化にとどまらず廃線ということにでもなれば、地域住民は生活の足を奪われてしまいます。そんな事態を招いてはなりません。

 リニア新幹線が地域にもたらすかもしれない未来を夢見る前に、採算性を再検証する必要があります。住民の暮らしや自然環境に悪影響をもたらさないように、JR東海には、法制度さえ守ればよいという姿勢ではない良心を持ってもらわねばなりません。自治体も過度に心踊らさせず、長期にわたって住民に不利益がもたらされることのないよう、目配り気配りをしてもらわねばならないと考えます。

 中川村長時代は、外部資本に過剰に依存せず、村の可能性を活かした内発的発展(特に住民の個性が発揮されること)をめざそうと考えていました。風土を大切にし、住民がのびのび活躍するかたちで、地域の持続可能性を育むべきだと考えます。
 国の政策は、地域のそういう取り組みをバックアップするものにせねばなりません。

2020,9,14    #そが逸郎立憲民主党長野5区総支部長


ご批判お聞かせください。

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ベーシック・インカム

 ベーシック・インカム(BI)が最近話題になりかけています。新型コロナウイルスが暮らしにもたらす脅威にどう対処すべきか。それを模索する中で注目されているのでしょう。ミニ集会でもなんどか質問を受けました。

 BI については、もう12年も前から注目し、何度も発言しているのですが、ここには BI をタイトルにした文章を掲出していないことに気づきました。
 先日、メールマガジン『そが逸郎通信』で BI を紹介したので、ここに転記します。

 ベーシック・インカム(BI)というのは、すべての個人に、生存に必要な基本的な所得を、一切の条件を付けず、定期的に給付する、という考えです。

 無条件ですから、働けない人や仕事を探している人だけではなく、ばりばり稼いでいる人にも、働く気のない人にも給付します。

 そんなことをすれば誰も働かなくなるのでしょうか?

 真の BI は、意に沿わないあり方・人間関係からの離脱を可能にし、生きたい生き方を可能にします。忖度無用の生き方ができるようになるのです。
 現行の福祉制度が抱える矛盾も解決します。人の嫌がる仕事の対価を上げることにもなるでしょう。
 労働観のみならず、「どう生きるか」といった人生観・価値観にも大きく影響するに違いありません。
 貧困問題のみならず、少子化や東京一極集中の解消、地方の持続可能化など、多くの課題の特効薬になるだろうと思います。

 一方、抜本的すぎるかもしれない変革であり、副作用のある劇薬であるかもしれません。
 名目だけの少額の BI で「生存は保障された」として、セーフティネットを削減しようとする新自由主義者が現れそうです。

 BI は、これまで財源問題が課題でしたが、最近のMMT(現代貨幣理論)や公共貨幣といった新しい主張と組み合わせれば、解決できるかもしれません。
 (MMT、公共貨幣については、https://bit.ly/32dnklnを参照ください。)

 中川村長時代に書いた文章が、BI を網羅的に的確に論じていると思うので、紹介します。ご意見・ご批判をお聞かせください。

   https://bit.ly/2Yu0TpM

 また、BIを解説する動画をつくってネットに上げることも計画しています。これに参加して、質問や問題点の指摘をしていただき、議論を深めてくださる方がおられれば嬉しいです。

  2020,9,4      #そが逸郎立憲民主党長野5区総支部長

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農村集落を持続可能に

 8月30日は、村の防災訓練と集落で実施する地区作業と風祭がありました。
 その日は、松本の市民連合主催による市民と野党の共闘の集いがあり、わたしは杉尾参議院議員の代理で立憲民主党代表として出席せねばならず、防災訓練の後の地区作業と風祭には参加できませんでした。

 今回の地区作業は道路沿いの草刈りで、隣組ごとに受け持ち区域が決まっています。わたしの組は9軒ですが、高齢化でビーバー(エンジン草刈り機)を扱える人は、6人しかいません。わたしが欠けるわけにはいかないので、事前に、6分の1+アルファの草刈りをしました。
 写真の道路左下は、息子のワインブドウの畑です。遠望は、伊那谷(下伊那郡北部)。

草刈り後の村道とブドウ畑

 中川村長時代、『日本で最も美しい村』連合に加盟したり、子育て支援、創業支援、住宅補助などの対策を講じて、転入人口が転出を上回った年もありましたが、少子化・人口減少の流れは逆転できませんでした。
 どの市町村も、厳しい財政の中で同様の工夫をしています。しかし、市町村でできることには、限界があります。

 国の考えが、都会の上場企業重視で、株価だけ吊り上げておけば経済は好調だと言い募れるという態度であるかぎり、地方の暮らしは悪くなる一途です。
 東京集中を是正し、今の、庶民に偏った国民負担のあり方をまっとうに正して、国民がもっと自分の将来のためにお金を使えるように可処分所得を増やし、地方でも希望をもってのびのびと暮らせるようにせねばなりません。
 そうしてこそ農村集落は未来に引き継がれていきますし、少子化も克服できると考えます。

2020,9,2 #そが逸郎立憲民主党長野5区総支部長

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敵基地攻撃論に頂いたご意見に 2020,8,17

 

 先日の小論「敵基地攻撃論は、へぼ将棋」https://bit.ly/3gZ4ljj にいくつかご意見を頂きました。

●兼宗真さんより
 長年の疑問があるのですが、個別自衛権の行使も憲法違反なのではないでしょうか? もしご意見を頂ければ幸いです。

●中川賢俊さんより
 この国の政治に危険極まりない軍事力を制御できる力があるかどうかの問題だと考えます。勿論、自公の与党や一部野党にはありません。では野党にはあるでしょうか。甚だ心もとないものがあります。自民党政権は『専守防衛』を掲げて、ここまで軍事力を増強し、同時に韓国や中国との緊張対立を煽ってきました。その政権に対峙する野党の中心も、同じく『専守防衛』を掲げています。これでは軍拡競争から抜け出すことなどできないと考えます。

●Masakiyo Sibuya さんより
 私は曽我さんのお考えに同意します。非現実論だとか、絵空事だとかいう意見もありますが、戦争からは何も生み出さない現実を認識し、平和を享受できる世界を作ることは、政治家の使命です実現に向け、ご努力をお願いします。もちろん、近いうちにある総選挙頑張っていただくとともに、少なくとも私は支持します。

* * *

 良い刺激を頂きました。ありがとうございます。

 兼宗さんのおっしゃるとおり、虚心に読めば、日本国憲法は個別的自衛権も否定していると、わたしも思います。9条は集団的自衛権は勿論、個別的自衛権も放棄しているとしか読めません。「9条にもかかわらず個別的自衛権は認められる」という憲法解釈は、国際法など日本国憲法以外の論拠を持ち込んでの屁理屈だと思います。

 しかし、日本国憲法が書かれた後、朝鮮半島情勢などを背景に、GHQの占領政策が「逆コース」と呼ばれる向きへ逆転され、警察予備隊などを経て自衛隊が創設され、冷戦の中、米軍を補完するためにどんどんと増強され、冷戦が終わったにもかかわらず、ついには集団的自衛権によって、血税で米国から贖った兵器もろとも自衛隊員を米軍に差し出すに至りました。

 理屈の上では、GHQの「逆コース」の要求を憲法をたてに拒絶し、戦力をもたないままでいることもあり得たかもしれません。砂川事件伊達判決に則って、日米安保条約を違憲とすることも、論理的には可能だったでしょう。
 しかし、現実には、警察予備隊が創設され、多くの旧軍関係者がそこにはせ参じました。戦争責任は、うやむやにされたわけです。

 戦争中、兵士らに「鬼畜米英」と叩きこみ、無意味な万歳突撃を強いて死なせておきながら、敗戦後のこの媚米ぶりは一体なんなのか。「英霊」に顔向けできるのでしょうか。
 昭和天皇も、かつて平家から源氏に乗り換えたように、天皇を護る征夷大将軍的役割を帝国陸海軍に替えて駐留米軍にやらせようとし、米国の思惑はともあれ、実際そのようになっていると感じます。(『昭和天皇・マッカーサー会見』豊下楢彦、岩波現代文庫を読んだわたしの感想です。「昭和天皇沖縄メッセージ」も同じ考えから発せられたのでしょう。)
 戦後日本の、愛国者と自称する人たちの媚米ぶりや、戦争責任に知らぬふりをしている背景には、こういう裏事情があると思います。

 このようなねじくれた歴史の果てに、安倍政権は集団的自衛権まで合憲ということにしてしまいました。さらには敵基地攻撃まで狙っています。しかし、仰るとおり、日本国憲法の本来の考えは、個別的自衛権さえ認めていないと考えます。

 ただしかし、だからといって、今すぐ個別的自衛権とすべての戦力を放棄すべきだとは考えません。急ぎすぎると揺れ戻しの逆効果を生みかねないと思うからです。

 中川さんがおっしゃる「専守防衛は軍拡を正当化する口実」も、そのとおりだと思います。いずれの軍事大国も、他国の脅威を口実にして、軍備増強を図ってきました。専守防衛という言葉は、軍拡の免罪符として使われてきたのです。
 ですが、そうであっても、「専守防衛」の軍事力も即刻放棄するというのは、拙速で危険だと思います。危険というのは、外国に攻め込まれる危険ではなく、主権者・国民が不安に耐えられず、軍事力増強を要求し始める危険です。

 わたしは、仏教の始祖・釈尊の考えを勉強してきました。
 「人は皆、凡夫であって、繰り返し執着の自動的反応となって、苦をつくってばかりいる。」
 釈尊はこのように考えました。「苦をつくってばかりの凡夫が寄り集まって、どのように世の中を運営すれば苦を少なくできるか」を模索するのが政治だと、わたしは考えています。

 当然、日本のみならず、どの国であれ、与党であれ野党であれ、すべての政治家は凡夫です。官僚もまた凡夫です。政治家も官僚も、凡夫としてメンツや権力欲、功名心、保身、金銭欲、等々から愚かな反応を繰り返します。世界は、「制御能力のない者が危険な道具をもっている」ということわざどおりの状態だと言えましょう。
 権力が暴走しないように立憲主義でタガをはめ、熟議の民主主義によって、批判しあい、間違いを正しあい、考えを深めあっていくことで、凡夫が軍事力を持つことの危険をいくらか低下させることができます。

 しかし、凡夫であるのは、政治家や官僚だけではありません。主権者・国民もまた、凡夫です。
 「あの国が攻めてくるのではないか」と思えば不安になるし、「あの連中は、人々を抑圧している。自然環境を破壊している」と思えば「許せない」と義憤にかられます。不安は自分を守りたい反応ですし、義憤は一面では善なる自分を高めたい衝動であり、ともに執着の現れです。

 不安や義憤を煽り、執着を利用して人々を巧妙に操る技術が、プロパガンダです。人々の執着は、付和雷同しやすく、同調してひとつの方向に走り出しかねません。プロパガンダは、そこにつけ込みます。その結果、しばしば甚大な苦を生み出すことになります。
 多数決だけの民主主義は、付和雷同の執着にお墨付きを与えることになるので、危険です。これを防ぎ、プロパガンダに対抗するには、少数意見であれ批判を尊重する熟議の民主主義が必要です。そのためには、情報公開と言論・批判の自由が大切です。

 話が少しそれました。
 元に戻すと、わたしが危惧するのは、拙速に個別的自衛権や専守防衛までも直ちに否定すると、主権者・国民(=凡夫)の不安を煽るプロパガンダにつけ入るチャンスを与えかねないことです。頭上を超えるミサイル(または飛翔体)をどこかの国に一発撃ってもらえば、国民世論を簡単に敵地攻撃論歓迎へと導くことができるでしょう。

 急いてはことを仕損じます。
 「疑心暗鬼に陥って互いに兵器を向け合うのは愚かである。国民の暮らしを支えることにこそ税金を使うべきだ。」
 こういう考えが、多少のプロパガンダなどでは揺るがないしっかりした常識として、自国民だけでなく、世界中の市民に常識として共有されるよう、努力していくべきだと考えます。
 それまでの間は、けして軍拡には踏み込まず、国民が不安に耐えられる適度の「防衛力」は残しながら、上記の努力によって緊張を低減し外国政府とも協調して軍事予算を削減し、すこしずつ日本国憲法前文が掲げる「崇高な理想と目的」の実現に近づいていくのが「現実」的だと考えます。

* * *

 ところで実は、反対のご意見も頂きました。メールをそのまま紹介することはできませんが、沖縄出身で交渉学や紛争解決学の研究をしておられる方からです。このような趣旨です。

● 平和が一番であるし、武力よりも、政治の力、そして対話の力が一番だが、戦後日本が本格的な紛争を免れてこられたのは、9条に加えて、在日米軍の存在のおかげでもある。正義の女神ユースティティアは左手に天秤、右手に刀を持つ。素手での交渉はあり得ない。力なき正義は無力である。

 わたしも、これが今までの常識だと思います。しかし、「現実」的な考えであり、申し訳ありませんが、「現実」に妥協して現実を悪化させる考えだと言わざるを得ません。
 正義と正義が力で対決し、そのはざまで女性や子供たちを含む多くの人々が巻き添えにされているという状況を停止すること。それが我々の課題です。

 確かに、軍事抑止論が大規模戦争をためらわせたという事実はあったでしょう。しかし、同時に、抑止のためと称する軍事力が、機器のトラブルや人的ミスによって世界戦争を勃発させかねない事態もありました。
 例えば、1983年ソ連の警戒網が米国からのミサイル攻撃を感知しましたが、担当将校がそれをエラーだろうと判断したために、全面核戦争を免れました。本来なら、相互確証破壊戦略に基づき、ただちに報復攻撃が行われ、米国もそれに反応して、『渚にて』の世界が現実になっていたはずです。つまり、軍事抑止論が世界を滅亡の寸前まで導いたが、服務規則に逆らった一個人の判断が世界を救ったのです。
 軍事抑止力は、抑止のために破壊力を十分に高めねばならず、その結果、世界を戦争の危険から守るよりも、世界を破滅させる危険をもたらす、と言わねばなりません。

 確かに、現在に至る歴史を振り返れば、軍事的防衛力は必要だったと認めます。しかし、交通やコミュニケーションの手段は発達し、地球は小さくなりました。人類は、文化の多様性を知り、相互理解も広がりつつあります。経済的な相互依存は、急速に深まっています。平和的にものごとを解決する可能性は、以前より高まっています。

 また同時に、人類は、大量生産・大量消費によって資源を枯渇させ、環境を破壊し、地球温暖化による気候変動を引き起こしています。今は、新型コロナウイルスに晒されています。環境変化に伴い、新たな感染症が発生する頻度も上がっていくでしょう。克服しなければならない喫緊の課題は、目白押しです。安全保障というような、本気になれば話し合いで解決できる問題に愚かな予算を費やすゆとりはありません。

 例えば奴隷制度を考えてみれば、それがない世界を夢想することは、かつては夢物語、お花畑だったことでしょう。しかし、今では、奴隷制度の復活を主張しても、誰も相手にしてくれません。
 奴隷制度と同様に、「平和のための戦力」という論理破綻も、歴史の教科書で習うだけのものにしなければなりません。ただし、あせらずじっくり時間をかけて丁寧に、世界に問いかけていくことが重要です。
 その任務に先頭で取り組むのが、日本でありたいと思います。

2020年8月17日 #そが逸郎立憲民主党長野5区総支部長

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敵基地攻撃論は、へぼ将棋(2020 ナガサキ原爆の日に)

◆ 平和主義はお花畑か?

 「お花畑」というのは、インターネット上で使われる言葉で、「現実をわきまえない夢物語」というような意味です。 ネトウヨ(インターネットを匿名で徘徊する反サヨク思想の持主)は、「平和主義はお花畑」と揶揄します。また、「東アジアの緊迫する安全保障環境の現実を直視すれば、国民を危険に晒しておくわけにはいかない」と、軍備の増強を主張する人たちもいます。突然大手を振って語られるようになった敵基地攻撃論は、そのひとつです。

 はたして、平和主義は、お花畑なのでしょうか? 反対に、軍事力増強論は、現実的なのでしょうか? 検証したいと思います。

◆ 敵基地攻撃論は、へぼ将棋

 へぼ将棋とは、自分の手作りばかりに夢中になって、相手がどうでるかを想像していない下手な将棋です。 こちらの行動は、必ず相手の反応を引き起こします。 敵基地を攻撃すれば、どういう反応があるのでしょうか。あるいは、敵基地攻撃能力を備えるだけで、または、口にするだけでもどういう変化をもたらすのでしょう。

 まず、攻撃を察知して、事前に相手の基地を攻撃すれば、それで戦争は終わるのでしょうか? 太平洋戦争の開戦にあたって、日本は米国の国力を認識していましたが、「緒戦に勝って戦意をくじき、和平に持ち込む」というお花畑な見通しを立てました。確かに緒戦には勝ったものの、案の定、生産力の差は歴然で、その後は敗退を繰り返し、アジアの人々を含む大勢を犠牲にして無条件降伏に至りました。一度始めた戦争は、簡単に終えることはできないのです。

 敵基地攻撃能力を口にするだけでも、相手は反応します。「こちらも備えねば」と考えるに違いありまりません。そうなれば、またその新たな「現実」に対処するのが「現実的」ということになってしまいます。きりのないシーソーゲーム。危険の度はみるみる高まります。愚かな安全保障のジレンマです。

 すでに北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)のミサイルには、単純な弾道ではなく、軌道を変えながら飛行するものがあるそうです。今のミサイル防衛システムで撃ち落とすことはできません。となれば、これに対応する新装備を開発して配備し、その後も同じようなイタチゴッコを繰り返すのでしょうか。 飽和攻撃(防御能力を上回る攻撃を一挙にしかけること)をされないためには、どれだけの迎撃ミサイルが必要になるのでしょう。

 抑止力というような無益なことに国の富を費やすより、お互いに国民を幸せにすることに励んだ方がいいに決まっています。

 ソ連が経済的に軍拡競争についていくことができなくなったために、アメリカは冷戦に勝つことができました。軍事抑止力増強論を主張する人たちが想定している相手は、おそらく中国でしょう。では、日本は、中国と軍拡競争をしてついていくことができるのでしょうか? 際限のない軍拡競争に突き進む覚悟を決めた上で、敵基地攻撃能力を主張しているとは思えません。

 縁台将棋なら「待った!」も言えるでしょう。しかし、目先の「現実」に恐れおののいて反応するだけの、近視眼的なへぼい「現実主義」は、現実をさらに悪化させます。

◆ 軍備増強論者にみられる「リスクのつまみ食い」

 中川村長を務めていた時、自民党国会議員が野党側でない伊那谷の市町村議員を集めた会に呼ばれて、参加したことがあります。 安全保障に詳しいと紹介された国会議員が来賓として講演し、「日本は原発がたくさんあって危ない」と切り出しました。「自民党が原発の危険を説くとは!」と驚いていると、「だから、原発を守るミサイル防衛網が必要だ」という話の展開でした。リスクを利権につなげるしたたかさと牽強付会にあきれました。

 原発は、軍事的には自爆装置、自爆核爆弾に他なりません。狙われたら大変なことになるのは仰るとおりです。だからこそ、すみやかに原発依存をなくし、廃炉せねばなりません。しかし、自民党は、再稼働を進めています。

 ミサイル攻撃など持ち出さなくても、原発は、いつ起こってもおかしくない地震の危険を抱えています。なのに地震のリスクには頬かむり。 軍備増強論者は、ミサイルのリスクばかり喧伝しますが、ミサイルは単なる運搬手段にすぎません。核爆弾を持ち込もうと思えば、他の運搬手段はいくらでもあります。原発を狙う気であれば、核爆弾も必要ありません。小説『原発ホワイトアウト』の結末は、豪雪の日に山中の送電線を倒され、外部電力を奪われた原発が、冷却能力も失い暴走するのを手をこまねいてみているしかない、というシーンでした。

 自民党は、金になる都合のいいリスクは騒ぎ立てる一方で、都合の悪いリスクはほったらかしにしてタカをくくっています。国民のためには、あらゆるリスクを合理的かつ平等に評価して備えねばならないはずです。安全保障問題を利権のためのリスクに仕立ててつまみ食いすることは許されません。敵基地攻撃能力は、利権の新たなつまみ食いの材料にされかけています。

◆ 新たな紛争の形を理解しない「現実主義」者

 「仮想敵国がミサイルで攻撃してくる」というのは、戦争の古いイメージです。昨今では、「テロとの戦争」といわれるように、もはや誰と争っているのかもはっきりしない紛争がほとんどになりました。争いとなれば、どこで誰に何を仕掛けられるか予想はできません。とはいえ、それでもテロ組織の後ろにはどこかの国が関与している場合が大半でしょう。 つまり、どこかの国と緊張関係を高めれば、ミサイルといった旧来型の戦争だけではなく、事故かどうかも見分けられないテロにも備えねばならなくなります。 緊張をいたずらに高めず、いかなる組織も不穏なことを考えない状況をつくりだすにしくはありません。

◆ そもそも自称「現実論」者は、安全保障に真剣でない。

 敵基地攻撃能力が突然話題にされはじめたきっかけは、イージス・アショア導入のとん挫でした。 まず適地選定にグーグル・マップを使ったことが問題になりました。イージス・アショアは、レーダーによるミサイルの探知や迎撃ミサイル発射のため、一定以上の高さの山が近くにあってはなりません。その割り出しを、精密な地図や測量ではなく、インターネットのグーグル・マップで安直にやっていたことが露見し、作業のやり直しが余儀なくされたのです。 そして、最終的に導入が撤回されることになった理由は、迎撃ミサイルの一段目のブースター(推進装置)が、住宅地に落ちる可能性があること。地元に約束してきたとおり基地内に落ちるようにするためには、設計変更に膨大な予算と時間が必要になることが、今頃になって判明したのです。そんなことは、最初に確認しておくべきことではないでしょうか。

 計画が中止されたこと自体はよかったと思います。しかし、4500億円の予算を見込み、既に米国側と1800億円の契約がなされています。巨額の税金と多大な準備作業を費やして、「国民の命と財産を敵国の攻撃から守るため」と声高に叫ぶ割には、あまりにも杜撰な仕事ぶりです。口で言うほどには安全保障をまじめに考えていないのです。そのことは、先に書いた、ミサイルの脅威を叫びつつ原発再稼働をすすめる矛盾からも明らかです。「現実論」者がなぜ安全保障を声高に叫ぶのか? その理由は、利権か、あるいは米国に貢ぐためだろうかと、勘繰らざるを得ません。

◆ 抑止力重視は、外交の巾を歪ませる。

 2020年広島の「原爆の日」で、安倍首相は、「唯一の戦争被爆国として核兵器のない世界の実現に向けた努力を進める」と述べました。しかし、我が国は、国連で採択された核兵器禁止条約の締約を拒否しています。ヒロシマ、ナガサキでなくなった方々に顔向けできません。おり、世界の顰蹙を買っています。なぜ世界から期待される役割に背を向けるのか。それは、米国の核の傘にすがっているからです。

 核だけではありません。日米安保のもとで、軍事力増強を進めれば、米軍と自衛隊の一体化を進めるほかありません。組織・体制も情報量も圧倒的に上回る米軍に付き従うなら、自衛隊は、実質的に米軍の指揮命令下に入ることになります。兵器の部品や消耗品の供給でも米国に依存することになるし、IT化の進んだ兵器のコンピュータ・ソフトのアップデートでも、米側に見放されたらどれほど高価な兵器システムも無用の長物になります。軍事力を増強するほど、米国に取り込まれ自律性を失っていきます。

 極めつけは集団的自衛権です。やられている米軍を助けに入るといいますが、柳条湖事件、トンキン湾事件などを見ればわかるとおり、戦争はたいていやられたふりで始まるもの。集団的自衛権は、米国の戦争に自衛隊員を「どうぞお好きにお使いください」と差し出すことです。傭兵であれば、装備も給料も雇い主の国が持ちます。しかし、集団的自衛権では、それも日本の税金で賄うのです。その中には、米国から購入した高額の兵器も含まれます。日本人の若者を血税で米国から買ったハイテク兵器とともに米国の戦場に送り出すのが集団的自衛権です。何重にも売国的だというしかありません。

 軍備増強論者は愛国者を装いますが、実は従米・媚米にならざるを得ないのです。自民党は、米国の機嫌を取るために、自衛官をイラクその他に派遣し危険に晒してきました。日本の外交は米国に追従するばかりです。こんなことを続けていれば、沖縄で端的にみられるように、憲法で保障された国民の権利よりも米軍の都合が優先される属国的状況が永遠に続くことでしょう。日本独自の理念で世界に貢献することなど、未来永劫不可能です。

◆ 軍備増強論は、国民生活も地球環境もひっ迫させる。

 今、新型コロナに直面して、医療・保険体制の脆弱さが露呈しました。福祉の最前線で働く人たちのご苦労にも報えていない状態が続いています。教育費も自己負担が重くなり、勉学に打ち込めるのは恵まれた条件の若者だけです。生活保護の捕捉率は低いままで、多くの人が憲法が保障する「健康で文化的な生活」を営めない状況に放置されています。頻発する異常気象への備えも充実させねばなりません。 この状況でも、際限のない軍拡競争に踏み出すのでしょうか。ひとたび軍拡の方向に舵をきれば、相手にも対抗する反応を生み、シーソーゲームから降りることはますます難しなっていきます。それは、ミサイルにだけ備えを固める一方で、新たな病原体によるパンデミックや自然災害への備えをなおざりにすることです。国民の救済を後回しにすることです。

 戦争は、人間と人間の問題であり、知恵と努力で避けることはできるはずですが、病気や自然災害をなくしてしまうことはできません。医療や福祉や貧困対策や教育など、暮らしを支えることにこそ、お金を使い、今苦しんでいる人を助けるべきです。 気候変動を引き起こしている地球温暖化に直面している今、人を殺し暮らしを破壊するための準備に税金を費やすことを、子どもたちに納得できるように説明できるのでしょうか。

◆ 真の現実主義とは?

 軍拡路線は愚策であることを述べてきました。
 「危険な道具を制御能力のない者に持たせてはならない」という意味のことわざがあります。今の政治家や官僚たちに安心して軍事力を預けておけるでしょうか。 逆に言えば、懸命の努力をして、知恵をつくし、工夫を重ねれば、軍事力に頼る度合いを低くすることができるでしょう。 軍拡に走る前に、外交力、交渉力、情報収集分析力、広報力、それらの総体である政治力を高め、人類史にどういう貢献をするかという根本の理念を深く考えることが優先するのは当然です。

 ただし、今すぐ一挙に軍事力を放棄すると言っているのではありません。大きな船の進路を変えるには、一定の時間が必要です。 さらなる軍拡に踏み出さず、現状を維持しつつ、外交力、政治力を磨き育てるのです。 そして、日本だけがそうするのではなく、「人を殺しインフラを破壊するために予算を割き、軍事力で他国の人々を脅すことは恥ずかしいことだ。時代遅れの考えだ」という世界常識をつくっていきます。

 理念を堂々と掲げ、みずからそれに則ったふるまいをする努力をします。理念とは、日本国憲法前文に掲げた「崇高な理想と目的」です。

 「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認」し、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占め」る(リーダーシップを執る)という誓いです。

 外国の政府のみならず、内外の市民とも連携していかねばなりません。災害救援や人道支援をもっと充実し、難民の受け入れも拡充すべきです。個別具体の紛争の調停にも汗を流します。 これらのためには、情報を収集・分析し正しく判断する能力が必要ですし、行動原理たる理念を世界に発信する広報力も必要です。 この努力が実を結んだとき、日本は世界中の市民から共感を得、尊敬され愛される国になることでしょう。これこそが最高の安全保障だと思います。そして、我々自身も、自分の国を誇りにすることができます。 国民の暮らしを支えることにもっとお金を使えるようになります。

 地球温暖化による気候変動が現実となる中、世界は、新型コロナの洗礼を受けました。これまでとは違う新たな時代をつくっていかねばなりません。日本は、世界の先頭に立ってこのような努力をすべきです。

◆ 結論

 果てしない軍拡競争への道へ自ら踏み出し、国民の暮らしのために使うべき大切な予算を縮減させるような愚挙だけは、してはなりません。

2020,8,9ナガサキ原爆の日  #そが逸郎立憲民主党長野5区総支部長

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「まっとうな政治」とは?

 「まっとうな政治」というのは、立憲民主党のキャッチ・フレーズです。
 わたしの考える「まっとうな政治」を切り口にして、このところの街頭演説をしています。こんな内容です。

 A:まず、国民負担のあり方をまっとうにする。
 B:そして、負担してもらった税金の使い方をまっとうにする。
 C:そのためにはどうすればいいか。

◆A 国民負担のあり方をまっとうにする。

※ A1 庶民の負担率は高すぎ。

 消費税が、昨年の秋、10%にされました。
 その一方で、実質賃金は長年にわたり下がっています(2019年は、1997年と比較するとマイナス10.5%。韓国はプラス57.8%)。先進国の実質賃金はどこも右肩上がりなのに、日本だけが異常です。

 <グラフは、雑誌『KOKKO』編集者の井上伸さんのツイッター(井上伸@雑誌KOKKO @inoueshin0)より>
 また、医療や年金などの保険料、社会保障負担額も大変重いというのが実感でしょう。
 その結果、日々の暮らしのやり繰りに追われて、未来のためにお金を使うゆとりがなくなっています。子どもの運動靴が傷んでも、すぐに買い換えて上げられない家庭が増えています。
 株価ばかり高値に誘導されていますが、国民の購買力が落ちて、内需が冷え込み、日本経済は低迷しています。
 庶民の負担を下げて、稼いだお金を自分たちの未来のために使えるゆとりを国民にもたらさねばなりません。国民がはつらつと未来に向けて生きてこそ、活力も創造性も生まれるのです。

※ A2 税金は、消費税ではなく、とるべきところから

 3%で始まった消費税が10%になり、消費税からの税収は大幅に増えました。しかし、大企業からの法人税は、その分だけ減らされています。
 株などで儲けた利益は、税率の低い分離課税にされ、高所得者は累進課税を免れています。
 外国資本が日本で上げた利益の多くも、巧妙に外国のタックス・ヘイブンに持ち出されて、日本の税収になっていません。
 こういった、とるべきところにきっちりと課税しなければなりません。

◆B 税金の使い方をまっとうにする。

※ B1 税金の不正な使用をやめる。

 安倍政権では、森友・加計学園事件のような、税金のヨコナガシ・ネコババが繰り返されてきました。
 トランプ大統領のご機嫌をとるために、欠陥戦闘機や売り先に困った遺伝子組み換えトウモロコシを爆買いしています。イージス・アショアの導入が取りやめになったのはよいことですが、購入ありきで十分な検討がなされていなかったため、莫大な費用が無駄になりました。
 このような不正や浪費は、許してはなりません。

※ B2 国民の暮らしを支えることに税金は使う。

 高福祉高負担と言われる国々のように、負担が高くても、それが国民の暮らしに戻っていれば問題はありません。
 しかし、今回の新型コロナは、日本の医療体制が実は大変脆弱であったことを暴露しました。PCR検査や重症患者受け入れ態勢の整備は、遅々として進みません。コロナ対応に頑張った病院ほど経営難に陥り、看護師さんのボーナスもカットされるようなあり様です。自粛を強要するばかりで、補償は後手後手、その補償からもナカヌキが行われています。
 税金が、国民のためではなく、安倍政権のオトモダチのための集金装置になっていると感じます。

 こんな状況を改めて、税金は国民の暮らしを支えることに使わねばなりません。
 医療体制を充実させます。特に合理的で有効なコロナ対策は喫緊の課題です。
 福祉の最前線で働く人たちの待遇も底上げせねばなりません。
 学生がアルバイトや教育ローン返済に追われることのないよう、教育予算の拡充も必要です。
 異常気象が頻発する中、自然災害への備えも見直さねばなりません。

 国民の負担を減らし、暮らしを支えることに税金を使って、誰もが未来に向けてのびのびはつらつと歩んでいけるようにしましょう。
 それによって、活力と想像力が生まれ、内需が高まり、実感できる景気の回復が実現できます。

◎ 財政問題に今、縛られるべきではない。

 上記のような主張をすると、赤字財政の中、財源はどうするのか、という批判がありそうです。「ハイパーインフレが起きて、大変なことになるぞ」と。
 確かに、自民党政権は、財政赤字を口実にして、福祉を削ってきました。しかし、その一方で、自分たちの利益につながる歳出には、財政赤字を気にかけていません。
 巨額の赤字を積み上げ、かつまた、日本銀行がインフレ目標2%達成のためにあらゆる手を尽くしたのに、インフレ率は少しも上がりませんでした。
 歳入で歳出を縛ろうとするのではなく、インフレ率を新たな財政規律の基準にすべきだとの考えも生まれています(MMT・現代貨幣理論)。さらに累積された財政赤字もなくしていけるとする公共貨幣という新しい提案もあります。<拙HP https://bit.ly/3g9hw0w を参照ください。>
 これまでの安倍政権の愚策の上に、新型コロナウイルスが重なって、今、支援を必要とする人が大幅に増えています。この状況で、拱手傍観は許されません。財政赤字を恐れず、しっかりと手を打つべきです。

◆C 国民負担のあり方と税金の使い方をまっとうにするには、どうすればよいか。

※ みんなで投票に行って、利権の政治を希釈する。

 今、多くの人が選挙に行かなくなっています。「政治は汚い。煩わしい。政治を変えても暮らしはよくならない。選挙はうざい。」そんなふうに感じているのでしょう。しかし、それは、そのように誘導され、そう思い込まされているのです。

 他方、世の中には選挙や政治に大変熱心な人たちもいます。その人たちは、政治を利権のためと捉えているのです。
 「自分たちの息のかかった政治家をたくさん国会に送り込めば、口利きだけでなく、自分たちに有利な法律や制度をつくらせることができる。それによるウマミは、多少の政治献金よりはるかに大きい。組織を上げて応援しよう。」
 そんな選挙の結果として、消費税は上げられ、大企業の法人税は下げられました。
 労働者派遣法ができて、非正規雇用が増え、実質賃金が下がっているのも、背景にあるのは、その人たちの思惑です。終身雇用を廃して、都合のいい人材を欲しい時だけ安く雇って、用が済めばすぐに解雇できるようにしたかったからです。少子化の根本原因も、非正規雇用で先の見通しを持てないまま安い給料で働くしかない若者が増えたことにあります。
 一部の、選挙に熱心な人たちの利権を実現するために、選挙に行かない人たちがしわ寄せを背負わせされているのです。

 ですから、この状況を改めるには、選挙に行くしかありません。自分たちと家族や子どもや孫たちのため、どういう国民負担がいいのか、税金をどう使うべきか、のびのびと暮らすためにはどうであればいいのか、それを考えて、投票をしましょう。そうすれば、利権のための選挙を希釈し、みんなのための政治を実現することができます。

 投票率を上げさえすればいいのです。案外たやすく、すみやかに、日本の政治をまっとうにすることができます。

* * * *

ご意見ご批判をお聞かせください。
過去のメールマガジンの記事の多くは、https://itsuro-soga.com/blog/ で読んで頂けます。
お仲間にメールマガジンの配信を希望される方がおられたら、メールアドレスをお知らせくださいませ。

2020年7月28日     立憲民主党長野県第5区総支部長 そが逸郎

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語り合う会@飯田市公民館(動画)

 先日(6/28)、飯田市で『語り合う会』を開催しました。その動画をYoutubeに上げています。
 
 前回の座光寺の時よりも少し改善ができて、参加頂いた方の発言が多少聞き取りやすくなりました。データも圧縮して、軽くしました。

 下の六つに切り分けましたので、ご興味のあるテーマから観て頂ければ幸甚です。
 

1 基調挨拶
  https://youtu.be/TT_5hISHa1I

2 自治体選挙と政党(飯田市長選)
  https://youtu.be/YyQ9kRrm-jI

3 コロナ後の経済と伊那谷
  https://youtu.be/6KHoZ-ta1Tk

4 政党と政治家個人の考えが相容れないとき
  https://youtu.be/swvvmtsSsQU

5 消費税
  https://youtu.be/ZppfcYnmq1A

6 地元貢献、主権者と政党、安全保障など
  https://youtu.be/hzYYW62QnBQ 

 
 どうぞ、ご意見・ご批判、お聞かせください。

2020年7月3日
 #そが逸郎立憲民主党長野5区総支部長

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「政治不信」という言葉はやめよう

 広島の河井夫婦による買収事件のテレビ報道で、評論家が「政治不信がまた高まる」と論評していました。

 この発言は、よくありません。「政治不信」ではなく、「自民党不信」あるいは「安倍政権不信」というべきです。

 悪いのは一部の政治家であるのに、政治一般に普遍化するから、政治不信・政治嫌いを広げることになります。「政治家は、私利私欲だ。利権まみれだ。汚らわしい」と思わせて、投票率を下げることになります。

 しかし、世の中には、「政治は、利権まみれの私利私欲で動いている」と考えて、逆に政治によけいに熱心に取り組む人たちがいます。その人たちは、巨額の政治献金もするし、組織をあげて応援もします。なぜなら、政治によって利権を得ることができるのをよく知っているからです。

 自分たちの息のかかった国会議員をたくさんつくれば、自分たちに都合のいい法律や制度をつくらせることができます。それによって得られるうまみは、政治献金で使う額よりはるかに大きいのです。

 利権や私利私欲を嫌悪する普通の人たちが、政治を汚らわしいと遠ざける一方で、利権の匂いに集まる人たちは、政治に熱心に取り組みます。その結果はどうなるのでしょうか。火を見るより明らかです。

 分かりやすい例を挙げましょう。
 「終身雇用制で定年まで高い給料を払うのは嫌だ。都合よく便利に使える労働力を欲しい時だけ安く雇って、用が済めば首にできるようにしたい。福利厚生に費用をかけるのは馬鹿らしい。」
 こういう思惑が、労働者派遣法をつくらせました。その結果、非正規雇用が増え、実質賃金は下がり続けています。一部の人たちの利権のしわ寄せは、政治が嫌いで選挙に行かない一般の人たちが背負わされることになるのです。

 つまり、利権で動く連中が、政治全般を汚らわしいと思わせて、みんなを政治から遠ざけることによって、得をしているのです。

 しかし、私利私欲や利権で動く政治家は、一部にすぎません。みんなのためにはどうであればいいのかと考えている政治家もいます。それは誰なのか、主権者が見定めて投票をするようになれば、利権の投票は希釈されます。一部の人たちの思惑で法律や制度がつくられることをやめさせることができます。

 投票率さえ上がれば、政治のあり方、国のあり方を変えることは、案外容易いことです。政治嫌いはやめて、自分事として政治を考え、声を上げ、投票に行きましょう。

 2020年6月28日 立憲民主党長野県第5区総支部長 そが逸郎

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杉尾秀哉参議院議員との街宣(動画)@松川町

 6月20、21日の土日、杉尾秀哉参議院議員を迎えて、下伊那郡数か所で街頭演説をしました。
 おりしも、9月解散10月総選挙の噂がささやかれています。状況は流動的で、どうなるか分かりませんが、ともかく地道にしっかりやっていきます。

税金の集め方をまっとうにして、国民負担を減らす。税金の使い方をまっとうにして、暮らしを支える。

https://bit.ly/389tRPm

 長野5区(上・下伊那)の皆さん、街頭活動や小さな集まりなど、お声がけください。参上します。

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語り合う会@飯田の報告(動画)

 先日(6/14)座光寺のりっけん長野5区事務所で、「語り合う会」をもちました。
 動画を撮りましたので、ご報告としてお届けします。
 たくさんのテーマで意見交換することができ、全体としては、一時間半ほどになりました。突っ込んだ生々しいお話もあります。

 以下のとおり、六つに分けて Youtube に掲出しましたので、ご興味のある部分からご覧になってください。

 まだまだノウハウが足りず、参加頂いた方々の声がうまく録れていなかったり、素人編集でへぼかったりしますが、ご寛恕を。

1 基調挨拶
   https://www.youtube.com/watch?v=vfjM7SaY0vE
2 年金の株運用、ベーシックインカム
   https://www.youtube.com/watch?v=MHIISx09ups
3 地球温暖化、東京一極集中、種苗法
   https://www.youtube.com/watch?v=CSVvOJe22-Q
4 情報公開、憲法改悪
   https://www.youtube.com/watch?v=-rk-EycI3R4
5 消費税、政局、野党共闘
   https://www.youtube.com/watch?v=K8KITqIzGNw
6 どうやれば変えられるか?
   https://www.youtube.com/watch?v=peHMTh-qg3E

 各地で同じような、また違う企画の集まりができればありがたいです。ご協力くださいませ。

2020,6,17
立憲民主党長野県第5区総支部長 そが逸郎

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直近の活動予定

 危機対応能力の欠如が露呈し、追い込まれた安倍政権が、先延ばししても事態は悪化するばかりと観念して、9月に一か八かのやけくそ解散をするのではないか、といった噂も囁かれ始めています。
 同時に、新型コロナに伴う自粛要請も徐々に解除となってきました。

 つきましては、以下の計画をたてました。ご都合をつけて、冷やかしに来て下さればうれしいです。

* * * * *

◆ そが逸郎と語り合う会
 ・6月14日(日) 午後1時半より
 ・立憲民主党長野5区事務所にて
  (飯田市座光寺・平安堂の近くのエネオスの向かい側、コメダ珈琲の隣)
 地域のこと、日本のこと、世界のこと、あるべき社会について、ご意見をお聞かせ下さい。
 この日に限らず、呼んで頂ければ別の場所でも、体温チェックの上、参上致しますので、気軽にお声がけ下さいませ。

◆ 杉尾秀哉参議院議員(りっけん長野県連代表)との街宣活動
 6月20日から8月上旬まで、日程の取れる土日で実施します。
 現時点で固まっている計画は以下のとおりです。
 (時間の多少の前後はご容赦下さい。)
 
*6月20日(土)下伊那南部
 10:20 阿智村 ピア駐車場
 14:30 阿南町 ナピカ駐車場
 15:00 下条村 ファミリーマート駐車場
 
*6月21日(日)下伊那北部
 10:15 喬木村 JA喬木店
 11:15 高森町 アピタ前
 12:45 豊丘村 豊丘マルシェ
 16:15 松川町 JA松川前
 
*7月4日(土) 上伊那南部
*7月5日(日) 上伊那北部
*7月11日(土) 飯田市(遠山方面を含む)
*7月12日(日) 同上

 これ以降は、計画が固まった時点で、改めてご報告いたします。
 場所や内容など、ご意見・ご要望をお聞かせいただければうれしいです。
 よろしくお願いいたします。

2020年6月12日  立憲民主党長野県第5区総支部長 そが逸郎

*メアドを教えてください。『そが逸郎通信』をお届けします。

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