ベーシックインカムについて 市川達人さんから『そが逸郎通信』47号に 2021/1/14

ベーシックインカムについて日頃考えていることを書かせていただきます。

私がBIという考え方を知ったのは10年以上前のことですが、その時の胸の高鳴りは今でも覚えています。長年マルクスに親しんできた私には、BIの思想がマルクスが『ゴータ綱領批判』で共産主義を説明するのに使った「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」の原理と同じものに映り、なるほど資本主義の下でも共産主義的な原理に近づく方途があるのだな、と考えたものです。

まずBIのもつ魅力、というか意義について確認しておきたいと思います。これについては、ほぼ曽我さんと同じだと思います。

そもそもBIは、労働を聖化し働かない人々を蔑視する資本主義的近代の偏見ないしイデオロギーへの対抗として生まれたものです。その近代イデオロギーは「働かざる者食うべからず」という箴言に示されるように、生存権を労働と結びつけ、人間を労働する動物へと貶めてきました。果たして働くことがそれほどに尊いことであるかどうかは、人間性の原点に還ってみれば思われるほど自明のことではありません。一つに、働くこと以上に人間にとって大事なことはないのかを考えるべきでしょう。H・アレントという20世紀が生んだ素晴らしい政治哲学者はこの点に一石を投じており参考になります。それに「人間=労働する動物」観は障害者、老人、幼児などを人間性の例外とします。つまり経済的価値を生みださない人をのけ者とし、人間とはみなさないのです。こうした資本主義的近代の歪んだ人間観を批判する意味でBIもつ意義は大きいと思います。いやその射程はもっと広いかもしれません。すなわち、働かなくても生きていけるということになれば、資本主義的搾取の根底にある労働力商品が成り立たなくなる可能性もあり資本主義そのものを揺るがすところにいくかもしれません

こんな期待があるのがBIですが、その実現に関しては色々な工夫が必要かと思われます。大事なことは竹中流のBIを許さないことです。斎藤孝平氏もいっているように、BIは一歩間違うと、お金さえ与えて最低生活保障をしておけば、経済格差に起因するような生活問題はすべて個人責任として処理すればよく、公助としての社会保障などは一切要らなくなるという論理に帰着しかねません。だから直接社会保障などとどう組み合わせていくかの課題が残されるでしょう。

これは市場原理を貫くためのBIを許さないということですが、さらに国家との関係も考えなくてなりません。長くなるので詳細は省きますが、誰を対象とするのか、移民労働者、難民などをどう扱うのかの問題が出てくるでしょう。このレベルでは今の日本国家は狭隘なナショナリズムを貫くでしょう。そうなると、BIをナショナルな国民統合の道具として使う右派BIなども出てくるでしょう。

最後に、これはMMTとも共通するのですが、両者とも貨幣経済を前提とした理論です。私は、資本主義的近代への批判的態度を持ち続けるためには、商品貨幣経済をどのように縮小限定していくかの視点が欠かせないと思っています。この点も、BIを考えるにあったっての留意点かと思います。

       勝手なことをいわせていただきました。

市川 達人

* * そがからの返信 * *

市川達人様

 メールありがとうございます。

 いつも深く掘り下げて頂き感謝します。

 拝読して思い出したのは、伝統的な正統派左翼の先生方のことです。BIについてご意見を尋ねると、「金を配って終わりなんて、福祉ではない」と否定的でした。否定的というより、怒りさえ帯びていたと感じます。「労働こそが付加価値を生む」というマルクス主義のテーゼに、BIは反すると捉えておられるのかも、と想像しました。

 BIを求める運動の発端は、無給の家事労働を担う主婦たちだった、と聞いています。BIは、賃労働でない活動、たとえば、家事や保育や介護、ボランティア的取り組み、創作や研究、地域の共同作業や農林地の維持管理なども、意義の高い労働だと考えます。
 そして、仰るとおり、そういった広い意味での労働をしないことも、BIは認めます。言い方を変えると、労働の概念を拡大すると、遊んでいるのか、労働しているのか、外からは(おそらく本人にも)判別できない、ということだと思います。お考えのとおり、生きているということだけですでに素晴らしい。それゆえ、すべての人に無条件に給付します。

 「労働こそが付加価値を生む」というテーゼは、やっぱり付加価値を重視する点で、『人新世の「資本論」』的な見方からすると、経済成長主義のなかにあるのでしょうか? 晩年のマルクスは、「労働こそが付加価値を生む」という考えを維持していたのでしょうか? 興味深いところです。

 竹中氏らが、BIを捻じ曲げて、競争と自己責任の論理でセーフティネット破壊を推し進めることに悪用するかもしれない、という危険は、わたしも常に気を付けなければいけないと思います。
 BI給付の対象範囲を決める際も、仰るとおり、外国人排斥の狭量なナショナリズムの声が上がるでしょう。
 いろいろな意味で、BIをどう評価するかは、社会観、人生観の違いを赤裸々にしてくれます。

 「商品貨幣経済の縮小限定」とおっしゃるのは、とても大きな問題で、どういうオルタナティブが可能なのか、今のわたしには想像がつきません。ポルポト派はいったい何を考えていたのでしょう。根本の考えはよかったが、現実化しようとする過程で誤ったのか。そもそもの根本から誤りだったのか。

 MMTにせよ、公共貨幣の考えにせよ、その新しさは、貨幣の本質を交換ツールではなく借用証書だと考える点にあると考えます。だとすると、仰るとおり、どちらも貨幣経済の枠組みを超えていないことになります。

 貨幣に依存しない社会とは、どういう風でしょうか。誰もが自分が提供できる商品・サービスを無償で提供しあい、誰もがそれを無償で享受しあう、という感じでしょうか。徹底した贈与経済? 消費税は意味を失いますね。

 考えられる社会をさまざまに想像してみるのは、とても楽しいです。「減価する貨幣」という提案もありました。難しいのは、BIにせよ、公共貨幣にせよ、脱成長のコミュニズムにせよ、脱貨幣経済にせよ、現実化する道筋だと感じています。

 また是非よき刺激を与えてください。

2021,1,22            そが逸郎