国家について(そが逸郎通信45号に)市川達人さんから 2020,12,23

曽我さま

通信、興味深く読ませていただきました。以下、簡単に感想を書かせていただきます。。

斎藤孝平氏の国家軽視に対し国家が果たすべき役割があるのではないかを語り、さらには理想の国家の姿を描かれた文章、私にとっては極めて新鮮な問題提起でした。

そもそもこれまで左翼は、ポジティヴな国家像を打ち出すことをしてきませんでした。しかし、そこには原理的な問題がかかわっての理由があったと思います。たとえば、マルクスは国家は階級支配の道具であると位置づけ、彼の後継者たちは国家の廃止や消滅を語ってきました。マルクス主義にとって国家はネガティヴなものなのです。もっとも、国家を消滅させる過程において、国家を変革の道具として使うという発想はありました。暴力によって権力を奪取して社会変革をおこなうという革命論などはその一つです。他方、自由主義的な国家論の方はというと両義的な態度をとってきました。一方で国家はその構成員のセキュリティ(生命と財産の安全)を守るための道具として積極的な役割を与えらえています。だが半面その権力はつねに暴走し構成員の私権を侵す危険をもったいる。だからその権力は制限されなければならないとされ立憲主義が採用される、という具合です。――現在のコロナをめぐる緊急事態法やロックアウトなどについての議論はここに関わっています――。いずれにしても国家はたかが道具に過ぎない。こうした原点が、左翼がポジティヴな国家像に及び腰だったことの理由と考えます。

私たちはコロナを封じるもっとしっかりした政策を立てろとか、沖縄の民意を尊重して辺野古の工事を即刻中止せよとか、国家に対して様々な要求を掲げます。これは国家が経済重視とか、また日米安保条約に依存する安全保障とか、私たちが認めることのできない国家戦略を採用しているからです。しかし、私たちの要求は、国家権力の悪しき所業、つまり国家は国民のためにあるのだという権力者たちの言い分に即してさえ認めることのできない行為に対して突きつけられているのであって、なにかあるべき理想的な国家を念頭に置いているからでは必ずしもありません。

そこのところを曽我さんは一歩前に踏み出して、私たちはもっと積極的な国家像を打ち出すところから運動してはどうだろうか、といっているわけです。たしかにいわれてみれば、憲法の前文はまさにそのような国家像をうたっていると読むことができます。そうした理想の下での行動が、実は国家を内部から空洞化する、つまり国家による脱国家が進行するかも知れない、そうしたことを狙っているのですね。考える値打ちのある提案と思いました。

だとしても、国家はやはり私にとって魔物です。生まれてから死ぬまで、日本全国どこにいても、私たちはつねに国家の呪縛の下にあります。国網恢々疎にして漏らさずです。その網は日常みえないし自覚もされない。たとえば、今私は日本語を使っています。しかし、それは国家の側からすれば、私が日本国民であることをみずからから選択していることになるのです。だからこそ恐ろしいのです。国家は使える道具かもしれないが、その道具はあまりに巨大かつ複雑かつ仕掛が巧妙、そこへの警戒の目を緩めることはできません。こんなことを考えました。

ところで斎藤孝平氏の著書、私が参加している勉強会で来年から取り上げ読んでいこうということになりました。

よろしければ参加しませんか。毎月最終土曜日の午後、長谷の山奥に集まっています。

市川 達人