敵基地攻撃論に頂いたご意見に 2020,8,17

 

 先日の小論「敵基地攻撃論は、へぼ将棋」https://bit.ly/3gZ4ljj にいくつかご意見を頂きました。

●兼宗真さんより
 長年の疑問があるのですが、個別自衛権の行使も憲法違反なのではないでしょうか? もしご意見を頂ければ幸いです。

●中川賢俊さんより
 この国の政治に危険極まりない軍事力を制御できる力があるかどうかの問題だと考えます。勿論、自公の与党や一部野党にはありません。では野党にはあるでしょうか。甚だ心もとないものがあります。自民党政権は『専守防衛』を掲げて、ここまで軍事力を増強し、同時に韓国や中国との緊張対立を煽ってきました。その政権に対峙する野党の中心も、同じく『専守防衛』を掲げています。これでは軍拡競争から抜け出すことなどできないと考えます。

●Masakiyo Sibuya さんより
 私は曽我さんのお考えに同意します。非現実論だとか、絵空事だとかいう意見もありますが、戦争からは何も生み出さない現実を認識し、平和を享受できる世界を作ることは、政治家の使命です実現に向け、ご努力をお願いします。もちろん、近いうちにある総選挙頑張っていただくとともに、少なくとも私は支持します。

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 良い刺激を頂きました。ありがとうございます。

 兼宗さんのおっしゃるとおり、虚心に読めば、日本国憲法は個別的自衛権も否定していると、わたしも思います。9条は集団的自衛権は勿論、個別的自衛権も放棄しているとしか読めません。「9条にもかかわらず個別的自衛権は認められる」という憲法解釈は、国際法など日本国憲法以外の論拠を持ち込んでの屁理屈だと思います。

 しかし、日本国憲法が書かれた後、朝鮮半島情勢などを背景に、GHQの占領政策が「逆コース」と呼ばれる向きへ逆転され、警察予備隊などを経て自衛隊が創設され、冷戦の中、米軍を補完するためにどんどんと増強され、冷戦が終わったにもかかわらず、ついには集団的自衛権によって、血税で米国から贖った兵器もろとも自衛隊員を米軍に差し出すに至りました。

 理屈の上では、GHQの「逆コース」の要求を憲法をたてに拒絶し、戦力をもたないままでいることもあり得たかもしれません。砂川事件伊達判決に則って、日米安保条約を違憲とすることも、論理的には可能だったでしょう。
 しかし、現実には、警察予備隊が創設され、多くの旧軍関係者がそこにはせ参じました。戦争責任は、うやむやにされたわけです。

 戦争中、兵士らに「鬼畜米英」と叩きこみ、無意味な万歳突撃を強いて死なせておきながら、敗戦後のこの媚米ぶりは一体なんなのか。「英霊」に顔向けできるのでしょうか。
 昭和天皇も、かつて平家から源氏に乗り換えたように、天皇を護る征夷大将軍的役割を帝国陸海軍に替えて駐留米軍にやらせようとし、米国の思惑はともあれ、実際そのようになっていると感じます。(『昭和天皇・マッカーサー会見』豊下楢彦、岩波現代文庫を読んだわたしの感想です。「昭和天皇沖縄メッセージ」も同じ考えから発せられたのでしょう。)
 戦後日本の、愛国者と自称する人たちの媚米ぶりや、戦争責任に知らぬふりをしている背景には、こういう裏事情があると思います。

 このようなねじくれた歴史の果てに、安倍政権は集団的自衛権まで合憲ということにしてしまいました。さらには敵基地攻撃まで狙っています。しかし、仰るとおり、日本国憲法の本来の考えは、個別的自衛権さえ認めていないと考えます。

 ただしかし、だからといって、今すぐ個別的自衛権とすべての戦力を放棄すべきだとは考えません。急ぎすぎると揺れ戻しの逆効果を生みかねないと思うからです。

 中川さんがおっしゃる「専守防衛は軍拡を正当化する口実」も、そのとおりだと思います。いずれの軍事大国も、他国の脅威を口実にして、軍備増強を図ってきました。専守防衛という言葉は、軍拡の免罪符として使われてきたのです。
 ですが、そうであっても、「専守防衛」の軍事力も即刻放棄するというのは、拙速で危険だと思います。危険というのは、外国に攻め込まれる危険ではなく、主権者・国民が不安に耐えられず、軍事力増強を要求し始める危険です。

 わたしは、仏教の始祖・釈尊の考えを勉強してきました。
 「人は皆、凡夫であって、繰り返し執着の自動的反応となって、苦をつくってばかりいる。」
 釈尊はこのように考えました。「苦をつくってばかりの凡夫が寄り集まって、どのように世の中を運営すれば苦を少なくできるか」を模索するのが政治だと、わたしは考えています。

 当然、日本のみならず、どの国であれ、与党であれ野党であれ、すべての政治家は凡夫です。官僚もまた凡夫です。政治家も官僚も、凡夫としてメンツや権力欲、功名心、保身、金銭欲、等々から愚かな反応を繰り返します。世界は、「制御能力のない者が危険な道具をもっている」ということわざどおりの状態だと言えましょう。
 権力が暴走しないように立憲主義でタガをはめ、熟議の民主主義によって、批判しあい、間違いを正しあい、考えを深めあっていくことで、凡夫が軍事力を持つことの危険をいくらか低下させることができます。

 しかし、凡夫であるのは、政治家や官僚だけではありません。主権者・国民もまた、凡夫です。
 「あの国が攻めてくるのではないか」と思えば不安になるし、「あの連中は、人々を抑圧している。自然環境を破壊している」と思えば「許せない」と義憤にかられます。不安は自分を守りたい反応ですし、義憤は一面では善なる自分を高めたい衝動であり、ともに執着の現れです。

 不安や義憤を煽り、執着を利用して人々を巧妙に操る技術が、プロパガンダです。人々の執着は、付和雷同しやすく、同調してひとつの方向に走り出しかねません。プロパガンダは、そこにつけ込みます。その結果、しばしば甚大な苦を生み出すことになります。
 多数決だけの民主主義は、付和雷同の執着にお墨付きを与えることになるので、危険です。これを防ぎ、プロパガンダに対抗するには、少数意見であれ批判を尊重する熟議の民主主義が必要です。そのためには、情報公開と言論・批判の自由が大切です。

 話が少しそれました。
 元に戻すと、わたしが危惧するのは、拙速に個別的自衛権や専守防衛までも直ちに否定すると、主権者・国民(=凡夫)の不安を煽るプロパガンダにつけ入るチャンスを与えかねないことです。頭上を超えるミサイル(または飛翔体)をどこかの国に一発撃ってもらえば、国民世論を簡単に敵地攻撃論歓迎へと導くことができるでしょう。

 急いてはことを仕損じます。
 「疑心暗鬼に陥って互いに兵器を向け合うのは愚かである。国民の暮らしを支えることにこそ税金を使うべきだ。」
 こういう考えが、多少のプロパガンダなどでは揺るがないしっかりした常識として、自国民だけでなく、世界中の市民に常識として共有されるよう、努力していくべきだと考えます。
 それまでの間は、けして軍拡には踏み込まず、国民が不安に耐えられる適度の「防衛力」は残しながら、上記の努力によって緊張を低減し外国政府とも協調して軍事予算を削減し、すこしずつ日本国憲法前文が掲げる「崇高な理想と目的」の実現に近づいていくのが「現実」的だと考えます。

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 ところで実は、反対のご意見も頂きました。メールをそのまま紹介することはできませんが、沖縄出身で交渉学や紛争解決学の研究をしておられる方からです。このような趣旨です。

● 平和が一番であるし、武力よりも、政治の力、そして対話の力が一番だが、戦後日本が本格的な紛争を免れてこられたのは、9条に加えて、在日米軍の存在のおかげでもある。正義の女神ユースティティアは左手に天秤、右手に刀を持つ。素手での交渉はあり得ない。力なき正義は無力である。

 わたしも、これが今までの常識だと思います。しかし、「現実」的な考えであり、申し訳ありませんが、「現実」に妥協して現実を悪化させる考えだと言わざるを得ません。
 正義と正義が力で対決し、そのはざまで女性や子供たちを含む多くの人々が巻き添えにされているという状況を停止すること。それが我々の課題です。

 確かに、軍事抑止論が大規模戦争をためらわせたという事実はあったでしょう。しかし、同時に、抑止のためと称する軍事力が、機器のトラブルや人的ミスによって世界戦争を勃発させかねない事態もありました。
 例えば、1983年ソ連の警戒網が米国からのミサイル攻撃を感知しましたが、担当将校がそれをエラーだろうと判断したために、全面核戦争を免れました。本来なら、相互確証破壊戦略に基づき、ただちに報復攻撃が行われ、米国もそれに反応して、『渚にて』の世界が現実になっていたはずです。つまり、軍事抑止論が世界を滅亡の寸前まで導いたが、服務規則に逆らった一個人の判断が世界を救ったのです。
 軍事抑止力は、抑止のために破壊力を十分に高めねばならず、その結果、世界を戦争の危険から守るよりも、世界を破滅させる危険をもたらす、と言わねばなりません。

 確かに、現在に至る歴史を振り返れば、軍事的防衛力は必要だったと認めます。しかし、交通やコミュニケーションの手段は発達し、地球は小さくなりました。人類は、文化の多様性を知り、相互理解も広がりつつあります。経済的な相互依存は、急速に深まっています。平和的にものごとを解決する可能性は、以前より高まっています。

 また同時に、人類は、大量生産・大量消費によって資源を枯渇させ、環境を破壊し、地球温暖化による気候変動を引き起こしています。今は、新型コロナウイルスに晒されています。環境変化に伴い、新たな感染症が発生する頻度も上がっていくでしょう。克服しなければならない喫緊の課題は、目白押しです。安全保障というような、本気になれば話し合いで解決できる問題に愚かな予算を費やすゆとりはありません。

 例えば奴隷制度を考えてみれば、それがない世界を夢想することは、かつては夢物語、お花畑だったことでしょう。しかし、今では、奴隷制度の復活を主張しても、誰も相手にしてくれません。
 奴隷制度と同様に、「平和のための戦力」という論理破綻も、歴史の教科書で習うだけのものにしなければなりません。ただし、あせらずじっくり時間をかけて丁寧に、世界に問いかけていくことが重要です。
 その任務に先頭で取り組むのが、日本でありたいと思います。

2020年8月17日 #そが逸郎立憲民主党長野5区総支部長

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