国家とグローバル民主主義

2020,12,14  そが逸郎

 国家とグローバル民主主義について考えています。

 国家と政党と主権者のあるべき関係。また、グローバル資本やグローバル民主主義と国家の関係。あるいは、国家をどのようにして克服、あるいは変革すべきか。

 もともと問題意識はありましたが、『人新世の「資本論」』(斎藤幸平・集英社新書)を読んで、あらためて気になりました。

 『人新世の「資本論」』については、既に紹介していますが( https://itsuro-soga.com/2020/11/10/ )、再度かいつまめば、晩年のマルクスの、コモンに根差した「脱成長のコミュニズム」こそが資本主義が今直面している困難を克服する道だと主張しています。
 そして、その実践については、コモンを共同で自治管理し、連帯して資本に対抗する市民の参加型民主主義の取り組みに期待が寄せられています。

 しかし、その一方で、国家に対する期待は、ほとんど感じられません。「気候変動の対処には、国家の力を使うことが欠かせない」とは書いています。改めて精読する必要がありますが、多分国家への肯定的評価はこの一文だけだったと思います。

 確かに国家というシステムの弊害は少なくありません。
 先進国と途上国の格差がいつまでも解消されないのは、前者が後者の資源や労働力を安く買いたたき、弱みにつけ込んで利用し、また必要不可欠なものを囲い込んで高く売りつけているからでしょう。専制的な支配者は、国家という形式をとることで、独占した暴力を合法的に思うままに使うことが可能になります。さらには、外国からの批判に対して「内政に干渉するな」と反論することも。また、資本に都合のいい法律・制度を定め(例えば、廃棄物処分の基準を緩くして外国の廃棄物を大量に受け入れ、ずさんな処分投棄をするなどして)私腹を肥やす例もあります。税率を極端に下げて、外国資本に合法的脱税の手段を提供することもできます。為政者は、地位を保つために、しばしば外国への憎悪を煽り、また現実に戦争を起こします。

 そもそも国家は、資本主義が発生して以来、自国の資本が富を蓄積することを助け促進するシステムであり続けてきたと思います。また、消費者に喜ばれる商品サービスを提供して対価を得るビジネスではなく、国家に税金から支出させて安直に儲けようとする「ビジネス」も近年目立ちます。
 そして、今や、資本はグローバル化し、資本関係や提携関係でネットワークを作り上げ、世界をすっぽりと覆っています。しかし、これまで資本に仕えてきた国家は、資本がグローバル化してもこれまでの思考・行動パターンを踏襲しています。水道などの公共サービスを民営化したり、日本政府が種子法を廃止し、種苗法を改悪して自家採種を難しくするのも、グローバル資本への便宜です。グローバル資本は、国家を使って水や種子といったコモンを自分たちしか提供できない希少なものにさせて、高く買わせようとします。国家は、グローバル資本の方に顔を向け、グローバル資本が国民から富を吸い上げることを手助けしていると考えざるを得ません。

 国家の顔を、資本ではなく国民の方に向けさせねばなりません。あるいは、国家ではない別のシステムがあり得るのかもしれません。しかし、だとしても、そうするためには、暴力革命を起こすのでもない限り、国家という制度の内側から変えるしかありません。国家を是正、克服するために、国家というシステムの力を使わねばならない。これが難題です。

 あるいは、『人新世の「資本論」』が危惧する温暖化、もしくは世界戦争などによって今の国家システムが破綻し、p118 などに示された「四つの未来の選択肢」の第4象限「野蛮状態」(統治権力が弱く不平等な状態)に陥って、その混乱の底からの再生として、よりよい仕組みが創造されることになるかもしれません。しかし、カオス状況が長く続いた後も専制体制になる可能性が高いだろうし、野蛮状態に陥らずによりよい状況に移行する方法を考えねばなりません。とすれば、我々は、国家というシステムがあるうちに、国家システムの中から新たなシステム(国家システムの改善であれ、国家に替わるシステムであれ)を生み出す必要があります。

 しかし、この点に関しては、『人新世の「資本論」』は、残念ながらほとんど参考になりません。コモンに立脚する参加型民主主義が、いかにして国家を変革、または超克するか。その道筋についての議論は不十分です。

 『人新世の「資本論」』は、選挙によって改革を実現しようとしても、議会政治は資本の力に直面すればそれを突破できない、と述べています。そのうえで、既存の議会とは別の、市民が自主的に立ち上げる市民議会に期待しています(p213~)。
 しかし、異議申し立ての直接抗議運動だけでは、限界があるのではないでしょうか。それは、国家の外側での運動であり、国家の力を使っていないからです。国家の外からの圧力に加えて、国家の内側から国家というシステムを使って国家に変革を起こそうという力が伴わなければ、変革はおそらく実現できません。将来においては、国家システムのない世界があり得るのかもしれませんが、その場合でも、一旦は国家というシステムを使った国家変革・国家解体というステップを踏むことになると思います。(暴力革命や温暖化等の影響で国家システムが崩壊するのでなければ。)

 国家変革のための国家システムとして考えられるのは、議会でしょう。そして、議会において国家の進路を定める上で、政党の役割は重要です。

 先に『人新世の「資本論」』について考えた際( https://itsuro-soga.com/2020/11/10/ )には、政党を、主権者に育てられ調教されて、主権者のために国会でバトルするポケモンとして位置付けました。主権者の意向をうけたポケモンたちの議会でのバトルによって必要な変革を実現することが、あるべき姿だと考えます。しかし、現実には、政党ポケモンは主権者の手を離れ、勝手にバトルをし、大方の主権者も政党を自分たちのポケモンとは思っていないのが実情です。(利権のために政党を使おうとする一部の「主権者」は、多額の政治献金をし、組織を上げて特定のポケモン政党を飼いならし、思いどおりに成果を上げていますが。)

 もやもやした思いを持ちながら、ジョシュア・ウォンの『言論の不自由: 香港、そしてグローバル民主主義にいま何が起こっているのか』(河出書房新社)を読みました。香港の一国二制度を守ろうとする運動の中心にいる若者によるドキュメントです。
 返還前の香港にしばらく暮らしたものとして香港の現状は気になります。すでに思うところを述べた一文( https://itsuro-soga.com/2019/08/29/hello-world/ )を書いていますが、それへのご批判も頂いたので、彼の本は読まねばならないと思いました。

 香港の自治を維持しようとする民主派は、街頭デモや広場などの占拠といった非暴力不服従の抵抗運動だけでなく、仲間を議会に議員として送り込むことにも多大のエネルギーを注ぎました。大規模デモで逃亡犯条例改定を撤回させるという大きな成果もあげましたが、せっかく当選させた議員の資格をはく奪され、さらに今月に入ってジョシュアたちは禁固刑を宣告されました。香港を本土並みの統制下に置きたい北京政府からの圧力は頑強です。香港の自由が本土に拡散することを恐れているのでしょう。香港への厳しい対応は、北京政府の弱さと度量のなさの表れです。
 ジョシュアたちの頼れる寄る辺は、外国(特に米国)からの共感・支援です。彼ら民主派の若者の思いは、確かに一途で純粋です。ただ、同書「第3幕」で、中国の戦略を警戒する一方で、米国を単純に美化する見方は一面的だと言わざるを得ません。
 米国は、第二次世界大戦後も世界各地で戦争や軍事行動を繰り返していますし、アブグレイブやグアンタナモを取り上げずとも、例えば、日米地位協定において、日本の法律も憲法さえも蹂躙していることは明らかです。そんな米国を民主主義の守護神であるかのように考えるのは、ナイーヴすぎると思います。
 勿論米国にも、市民の自由や権利が世界中で尊重されねばならないという純粋な思いから活動している人やグループはいます。しかし、米国政府はそうではありません。一連の「カラー革命」の後ろには、米国のCIAなどの、状況を流動化させたい思惑があったという見方は消せません。

 ただ、これは米国だけのことではありません。中国も同様のことをしているでしょうし、ロシアも同じです。自国の利害のために様々な思惑でプロパガンダや地下工作をしています。大国だけではなく中小の国も、程度の差はあれやっていることでしょう。

 民主的自治を手放すことはできないという香港の若者の思いを、米国は、中国を揺さぶる材料として利用したいと考えているのは間違いないと思います。そもそも、一国二制度そのものが、香港を取り戻したい中国と、中国に政府に抵抗する「民主化」の種を植え付けたい英国はじめ西側の、同床異夢の思惑が練りこまれた妥協点だったのかもしれません。
 ジョシュアのような自由や自治を求める純粋な思いは、大国間のつばぜり合いの真ん中に挟まれています。ジョシュアが純粋でも、そのまわりに大国の思惑が渦を巻いている。では、我々はどうするべきか。

 そんなことを悩んでいる中で、国家の役割について、一つの可能性を思いつきました。 資本主義の行き詰まりを克服するために『人新世の「資本論」』が期待する「市民の参加型民主主義」や、香港のジョシュアたちのような自由と権利を確保しようとする闘い、その他多くの非暴力不服従の抵抗運動を、自国の利害のために利用するのではなく、理念として、自国の利害とはかかわりなく支援する国があるべきではないか。
 そういう国に日本がなれたら、すばらしいことです。良心的抵抗者の寄る辺になるべきだと思います。

 たやすいことではありません。自由や権利や自治、民主主義の寄る辺になるということは、自国においてまず、それらを厳格に尊重せねばなりません。そして、これらに関して地球のどこであれ問題があれば臆せず堂々と指弾する。そのためには、これらの問題だけでなく、地球温暖化対策、原発・核兵器の廃絶、プラスチックなどの廃棄物処理、貧困や格差の撲滅、途上国の人たちを搾取せず迷惑を押し付けない公正な貿易などについても、揚げ足をとられないように自らを律する必要があります。そして、国内だけではなく、地球全体で、温暖化対策をはじめとして環境が守られ、途上国の人たちが搾取されず健康で文化的な生活が送れるように、真摯な取り組みを重ねるのです。

 言い換えれば、軍事力や経済力でまさる大国に対して、理念の力で対抗できる国になるということです。
 要は、日本国憲法前文で、日本国民が国家の名誉にかけ全力をあげて達成すると誓った「崇高な理想と目的」、すなわち「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において名誉ある地位を占」め(=その取り組みの先頭に立ち)、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する」世界の実現のために努力するのです。
 いかなる国であれ、資本であれ、この理想に敵対するものは、臆することなく批判せねばなりません。軍事力による恫喝や経済的制裁による強制は、相手国民を人質にする恥ずべき行いとして自らに禁じ、理念において間違いを批判する。

 空想的理想論だと笑われるでしょうか。国際的な政治・経済の競争の中で、どの国も生き残りをかけて必死に闘っているのに、その厳しさを知らない空理空論であると。
 しかし、その競争は、結局のところ資本間の支配力拡大競争であり、資本に癒着した利権の生存競争ではないでしょうか。その結果、温暖化をはじめとして、地球の環境は破壊され、「途上国」の人たちのみならず、「先進国」の市民も巻き添えにされ、さらにはすべての生物の生態系までが破壊されようとしています。

 この状況に異議を唱える市民の声に応えて立ち上がる国家が必要です。

 軍事的・経済的大国や巨大資本に対してそんなことができるのか、という意見があるかもしれません。しかし、あらかじめ自ら考える理念を強固に鍛え上げ、世界に堂々と明示し、それにふさわしいふるまいを続けることで、それは可能になります。世界市民の共感と敬愛を集め、国際世論を味方にするのです。そうなれば、大国も、露骨な軍事的・経済的圧力はかけにくくなります。国際世論の批判を無視することはできないでしょう。なにか仕掛けてくるとすれば、暗殺・冤罪のような非合法な裏工作もあり得ますが、まずはプロパガンダで日本国内に反対世論を惹起しようとするでしょう。残念ながらそれに操られる人もでてくるでしょう。いつの時代も理想よりも自分の目先の利得を優先する「現実」派はいます。そちらの方が多いかもしれません。人は誰もが、凡夫であり、目先の損得に過敏に反応します。となるとここでも、事態を決するカギを握っているのは、国民=主権者ということになります。

 話は、振出しに戻りました。
 経済的利益だけを目指して激しい競争を繰り広げる資本主義が突き当たっている問題を克服するために国家を変革するにも、変革した国家を維持し国家の力を正しく地球環境や人権のために発揮させ続けるにも、主権者=国民が揺るぎないスタンスを堅持することが重要だいうことになります。プロパガンダで目先の損得や不安を煽られず、冷静に判断できる能力が必要です。

 ポケモンである政党が、飼い主である主権者・国民にそれを要求するのは僭越です。しかし、政党とて主権者・国民の一員です。そう捉えれば、政党も、みずから主権者・国民の一員として人権や環境のために働くべきだし、他の主権者・国民と呼応して、世界中の人権・環境のために闘えと飼い主たる主権者に命じられて頑張るなら、本望であるはずです。(政治家もまた凡夫。票をもらうために腰砕けになる可能性もありますが、政党の内部でそうならない努力をすることが必要だし、そうさせない主権者の強い声も必要です。)

 わたしも、日本を世界中の人々のために全地球的な規模で人権や環境を守る先兵とするために、働きたいと思います。
 
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