ニュースレター『そが逸郎通信』18号を書いたので、ここにも掲載します。
* * * * *
「新型コロナウイルスは、社会のあり様を一変させた。」 ユヴァル・ノア・ハラリが、先日(4/25)のNHK『ETV特集』で語っていました。 ハラリは、非常に深い視点から大きく俯瞰して鋭い歴史分析を展開している歴史学者です。わたしも『サピエンス全史』などで大いに刺激を受けました。 今、デジタル技術によるビッグデータの蓄積と分析は大変なスピードで進展しています。例えば、位置情報であり、趣味嗜好の傾向のデータです。思い出の写真が突然パソコンやスマホのモニターにポップアップされます。いつ、誰と、どこでなにをしたか、ビッグデータの中に記録されているということです。買い物サイトでは、お勧めの商品が提示されます。過去の注文履歴から趣味が把握されているのです。どんな本を注文したか、どんな単語を検索したかで、政治的傾向を含めた興味や嗜好が分かってしまう。ネット上でなく実店舗でも、キャッシュレスで買い物をすれば、購買行動は記録されます。自分で想像する以上に、我々は丸裸の状態にされているのです。 そして、コロナ以前から監視の網は相当に広がっていました。街頭でも乗り物でもお店でも見渡せばどこにでも防犯カメラがあります。顔認識で個人を追跡することも不可能ではありません。 トランプ氏の大統領選挙の際は、Facebookの情報をケンブリッジ・アナリティカ社が利用して、有権者をグループ分けし、それぞれの傾向に応じた情報を送り付けて投票行動を操作し、大きな問題になりました。しかし、ハラリは、これはもはや石器時代ともいうべき時代遅れ手法で、今では事態ははるかに進み、「皮膚の下の情報」までが収集されていると言います。 確かに、スマートウオッチのようなウエラブル端末では、心拍数、血圧、血糖値、眠りの質などがモニターされています。怒り、喜び、退屈といった感情の動きも把握され、政治的な反応まで生々しく記録することが可能になってもおかしくありません。 デジタル技術の進展が、ビッグデータの収集・分析を高度化し、大衆(=国民、主権者)のきめ細かな監視・管理を可能にしつつあるのです。 そして、このような監視技術が進歩する中、今回の新型コロナウイルスによるパンデミックによって、人々(=国民、主権者)は、国家による監視・管理・自由の制限を受け入れるようになった、とハラリは言います。「降りかかる危険を排除するためには、監視や自由の制限はしかたがない」という考え方が、広がってしまった、ということです。 念のために言い添えると、ハラリは、「安心・安全のためには監視や自由の制限を受け入れるべきだ」と言っているのではありません。「べき論」ではなく、「そうなってしまった」という現状分析です。 4/29の新聞報道によれば、共同通信が3~4月に実施した世論調査では、「個人の権利を制限できる緊急事態条項を憲法改正し新設する案に、賛成51%、反対47%」だったそうです。質問文がこのとおりだったとすると、わたしの想像より賛成が多いので、ハラリの言うとおり新型コロナの影響がでているのかもしれません。 わたしは、「人は監視されてはならないし、自由であるべきだ。自由を守るために、人が権力を監視すべきだ」と考えます。自民党が憲法に緊急事態条項を書き込もうと画策することに、わたしは一貫して反対してきました。新型コロナ対策の緊急事態宣言についても、緊急事態条項追加への地ならしにさせてはならないと言ってきました。 正直に言えば、9条改変以上に、緊急事態条項は危険だと考えています。なぜなら、緊急事態条項は、とても融通性があり応用が利いて、他の制度と組み合わせるなどちょっとした悪知恵で、統治権力はなんでも好き勝手ができてしまうからです。 有名な具体的事例を挙げましょう。ヒトラーが総統となる道筋では、ナチ党による自作自演ともいわれる国会炎上事件を理由にして大統領に<緊急命令>を布告させ、それを根拠に対立する国会議員を拘束した上で、本来なら出席議員不足で不成立の議会を、議院運営規則を修正して成立したことにして、全権委任法を成立させました。こうして権力を自分に集中させて、さらには大統領と首相の権限を統合した総統という新たな地位を新設し、みずからその椅子に座りました。これが、麻生副首相が言った「ナチスの手口」です。 しかし、ヒトラーは悪知恵だけで総統になったわけではありません。大衆(=主権者・国民)が強力な権力集中を望んだ一面もあったのです。 今回の新型コロナ対策の緊急事態宣言に、立憲民主党を含む大方の野党は賛成しました。マスコミには「宣言は遅きに失した」との意見も目立ちました。大衆の気分は、監視や自由の制限を渋々受け入れたというよりむしろ、安全の代償としてみずからそれを望んだとみることもできます。 もしも、ハラリが言うように、「べき」とは関係なく、事実がそうなってしまったのだとしたら、わたしたちは、どうする「べき」でしょうか。 今回の新型ウイルス騒動が去った後も、国際紛争や異常気象、天変地異、次のパンデミックがあるかもしれません。食料不足やエネルギー枯渇、移民の大量受け入れなどの可能性もあります。そういう状況になった場合、国民は平穏な暮らしを守るために強力な統治権力による支配を望むかもしれません。「緊急事態条項は許せない」と否定しているだけでは、大衆に置き去りにされる可能性があります。人々が監視や自由の制限を望んで、緊急事態対応がなされるに至った場合の対応も考えてみておくべきだと思います。そんな想定をするのは緊急事態条項を招きいれる利敵行為だと非難する方もおられるでしょう。しかし、可能性を想定してそれに備える一種の思考実験だとお考え下さい。 先に、わたしの根本的な考え方を少し書いておきましょう。 わたしは、人は皆、凡夫である、と考えています。凡夫というのは、自分かわいい、自分が大事、という我執の反応である、ということです。刺激を受けるたびに、我執によって自動的に反応します。 危険を感じると、人(=凡夫、サピエンス)は、いつの時代もいかなる文化でも、自分を守ろうとします。大勢が一度に巻き込まれそうな危険であれば、集団で暴走してしまいがちです。パンデミックが起こって、監視や自由の制限を受け入れるのも、権力にたよって身を守ろうとする集団反応です。 統治する権力もまた、凡夫です。自分の支配力を強めたいという我執を宿しています。そのために人々を不安にさせて自分に頼るように仕向け、あるいは義憤を煽って操ろうとします。支配力を強めたいという権力者の我執が、危険から守られたいという大衆の我執につけいるのです。(この結果、大衆は戦争などもっとも恐れていたものを、しばしば逆に招き寄せることになります。) このことをよく理解して、緊急事態対応の仕組みを考えねばなりません。なぜなら、この仕組みは、今の政権のみならず、未来にいかなる政権が出現しても、それによって使われる仕組みだからです。いかなる権力によっても好き勝手に使われることのないように、都合よく利用される可能性をつぶしておかねばなりません。 衆知を集めないと、わたしひとりの浅知恵ではたかが知れていますが、たたき台として思いつくままに書いてみます。 三つの段階で考えましょう。緊急事態に入る際の条件、緊急事態中に過度の支配をさせないように政権を束縛する仕組み、そして緊急事態を終わらせる手続きです。 ◆ 緊急事態に入る際の条件 自民党の改憲案にあるような、首相が非常事態だと宣言すれば、みずからに強大な権力が与えられるような仕組みは論外です。緊急事態対応を命じるものは、それを執行するものとは別でなければなりません。緊急事態監視委員会というような組織を、あらかじめ常設で設けておき、事が起こった時に、緊急事態だと判定するか、また、内閣に特別な対応を命じるか、判断します。 そのメンバーは、国会議員は必要でしょう。ただし、日本の議院内閣制では、首相は与党のトップですから、与野党バランスよく選出されるよう制度設計が必要です。 ドイツが脱原発の方針を決めた際は哲学者や宗教家も討議に加わったそうです。それを見習い、国会議員ではない見識ある人も加えるべきです。自治体の代表や弁護士もよいと思います。今の状況を見れば、医師や保健衛生の専門家も必要でしょう。 自分が属する「業界」の利害を考え政権に忖度されては困るので、業界団体(例えば弁護士会や市長会、大学学長会)の現役ではなく、先代の長がいいかもしれません。恣意的な人選を排除するため、「人物本位」をあえて基準にせず、「当て職」(なにかの役職にある人が自動的に役割を負うこと)にした方がいいかもしれません。 この委員会は、国民が(執着の反応を暴走させ)緊急事態として国家の強権を求めた場合でも、その必要がなければ国民を説得する役割も担います。 (例えば、大量の難民が押し寄せて、その排除・隔離など憲法・法律に反する対応を国民が求めた場合に、冷静な判断を呼び掛けるとか) ◆ 緊急事態中 過度な統制が行われていないか、緊急事態監視委員会が監視します。内閣は委員会に対応状況を報告せねばならない義務を制度化します。違反があれば、緊急事態は自動的に終了します。委員会は公開すべきでない情報には守秘義務を負います。内閣が国民に報告すべき事柄を報じていなければ、委員会の判断で公表します。緊急事態中のすべての公文書、メモ、メール、通話などのデータは保存され、しかるべきタイミングで公開されねばならないと定めます。 緊急事態でも、政府批判を禁止することは禁止です。人々の暮らしや緊急対応の現場の状況を知らない政権は、間違った指示をして予算と時間を無駄にし、現場を混乱させます。まさに今、我々はそれを目の当たりにしています。批判がなければ、間違いを正すことはできません。監視委員会は、受けとった行政批判を匿名化して原則公開し、実態を調査の上、必要なら改善命令を出します。マスコミは、watchdog の役割を強化すべきです。 ◆ 緊急事態の終了 緊急事態で手にした強い支配力を権力は持ち続けようとします。緊急事態を長期化しようとするかもしれませんし、監視や自由の制限を一部でも残そうと画策するでしょう。そうさせないために、緊急事態が自動的に終了し、緊急事態対応で発令したすべての政令が自動的に廃止となる条件を、恣意的な解釈ができない具体的な形で、緊急事態をスタートさせる際の条項に書き込んでおきます。 「危険が去るまで」といったあやふやな表現ではなく、たとえば今の新型コロナウイルス対応でいえば「国内の新たな感染者数が一桁である日が、**週間続いた場合、この緊急事態は自動的に終了する」といった文言を開始時に設定し、国民に公開しておくのです。その文言を定めるのは、緊急事態監視委員会です。 ざっと考えて、以上のようなタガが必要だと思いました。まだまだ押さえておかねばならないツボがあると思います。緊急事態条項の危険を皆でしっかりと認識したうえで、研究を重ね、自民党の思惑に対抗せねばなりません。 新型コロナウイルス対策で多くの政府が権限を強めたことについて、姜尚中氏が、別の番組でこんな趣旨の発言をしていました。 「強い権力に拮抗できる強い民主主義があってこそ、社会は緊急事態を克服することができる。拮抗する強い民主主義がなければ、権力は(危機を自分のために利用しようとするなど)見当違いの暴走をして、新型コロナの封じ込めに失敗するだけでなく、余計な害まで生むことになる。」(うろ覚え) 自由闊達に気兼ねなく発言し、批判しあい、学びあい、考えを深めあうのびのびとした空気が、常日頃から、そして緊急事態においても、大切だと思います。 |
2020,4,30 そが逸郎 立憲民主党長野県第5区総支部長
信州大学名誉教授、又坂常人先生からご意見を頂きました。『新型コロナと緊急事態条項 又坂先生から』 是非ご一読ください。
* メアドをお知らせいただければ、以後ニュースレター『そが逸郎通信』をお送りします。