教育・学校について (安冨講演会の報告に)

 安冨歩先生の講演についてのブログ(↓下にスクロールして下さい)を読んで下さった方からメールを頂いた(残念ながら公開不可)。
 講演で「子どもを守らねばならない。学校に行かせるべきでない」と述べられたことに関して、ご自身のお子さんが不登校だったこともあって、どう考えるか、と質問を頂いた。
 以下、返信。

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 メール頂戴しました。ありがとうございます。

 実は、わたしは、中川村長時代、教育については一切発言しないことにしてきました。教育については教育委員会の所管で、(教育についていろいろ内心で感じることはありましたが、)行政が教育に介入することは厳に慎むべきだと考えていたためです。そのため、村議会で議員さんから一般質問を受けても、答弁せず、教育長さんに答弁をお願いしていました。

 しかし、村長の職を離れて、教育についての問題意識は少し高まりました。投票率の低さや政治に対する関心の低さを実感したためです。しかし、それは、主権者教育がきちんとなされていない、といったレベルの問題ではなく、今の学校教育が、(個別にはすばらしい先生や学校があるとしても、全体では)力のある側を忖度することを保身として躾けていることが原因ではないかと感じているからです。読んで頂いたブログに書いた、「今も学校は、国民国家の都合にあわせて子どもたちを改造する役目を引きずっている」という視点に繋がります。大人の都合を先読みして、それに沿った行動をすれば評価してもらえる、ということを子どもたちに身につけさせている。安冨先生が「攻撃にさらされた子供は、迎合することで身を守ろうとするようになる」と仰ったことも、おそらく通底しています。

 一番の根本は、社会のための教育か、子どものための教育か、という点だと思います。社会(≒おとな)の都合にあうように子供を育てるのか、子どもたちの興味や関心、能力をのびのびと育むのか。

 もし、ひとつだけ社会のために身につけさせるべき能力があるなら、それは、忖度せず、堂々と批判し、貰った批判から学び、互いに議論して考えを深め合おう、という姿勢です。それ以外は、自分の興味に従ってどんどん勉強すればいい。

 勉強することは、とても面白いと思います。受験生の時もそう感じていました。数学や理科は、「へえ~へえ~そうなんだ~」の連続でした。歴史は好きではありませんでしたが、今となっては大変興味深い。切り刻んで「何年に誰それが何をした」というだけではつまらないけれど、大きな流れを知ることは、それが長ければ長いほど奥深い刺激に溢れています。安冨先生の国民国家の歴史分析もとても面白かった。(長いスパンで歴史を学ばせないのは、教育が権力に忖度しているからかもしれません。)

 ところが、今の学校では、断片的知識はさることながら、(学校だけではなく、社会全般がそうかもしれませんが、)周囲の空気を読んで、それに自分を合わせることを身体に沁み込まさせている。授業中は先生の意向を察し、休み時間はクラスメートたちの意向を察して行動しなくてはいけない。学校を卒業すれば、それなりに多様な世界が広がり、逃げ場もできますが、学校には逃げ場がないのだと思います。そんな場所で、要領よく自分をごまかせる子どもは調子を合わせることができますが、まじめで真摯に突きつめるタイプの子どもは、筋の通らぬことに簡単に納得できず、その場その場で都合よくルールを切り替えて使い分けることができずに、周囲(先生やクラスメートや、要するに学校というシステム)と軋轢が生じます。

 ただし、これは、学校というものを根本から否定するのではありません。今の学校のあり方には問題がある、ということです。安冨先生が「学校に行かせてはならない」(「行かせないほうがいい」というよりもっと強い言葉でした。)と言われるのも、「今の学校には」ということでしょう。良い学校はあり得るし、今の学校を良い学校にしていかねばなりません。

 今は先生にゆとりがなさすぎます。子どもたちと向き合う時間を十分に持って貰わねばなりません。本来の仕事ではないことで忙殺することのないように、先生の仕事の中身も精査する必要があるでしょう。子どもからも、保護者からも、地域からも敬愛される優秀な先生が必要です。そのためには、先生の待遇も良くしていかないといけない。

 『幸せのマニフェスト』という本があります。人間の幸せに大切なものはなにか、たくさんの統計、事例の相関関係を分析し考察しています。イタリアの五つ星運動が政策の参考にしていると聞いて読んでいます。
 この本は、人が幸福と感じるかどうかは、物質的・金銭的豊かさ、地位などとはほとんど関係なく、まわりの人との関係性が重要だ、と主張し、豊かな人間関係を拡げる具体的政策を提言しています。教育においても多くの提案がありますが、例えば、試験をして順位をつけ競争させることを批判しています。実際、北欧だったか、試験も成績表もない教育が行われているそうです。聞きかじっただけで、実際の様子はもっと調べてみなければいけませんが、日本でももし試験も成績表もない学校ができるなら、教育制度も根本的な発想から今とは違うものになっているはずです。試験も成績表も、子どもたちを選別して都合よく使おうとするおとなの都合から生まれたものではないでしょうか。

 しかし、最大の難関は、保護者であり世間一般の受け止めになるでしょう。試験も成績表もない学校を社会がおいそれと受け入れてくれるとは思えません。中川村でそんなことをしようとすれば、まずは議会が黙っていないでしょう。マスコミも、面白おかしく掻き立てそうです。

 しかし、こういう状況を、徐々にでも変えていくのは、○○さんのような、子どもたちのことを真剣に考える人たちです。当事者である子どもたちの力も借りて、上手にしかし大きな声をあげて頂けたらと思います。その声は、学校の問題に留まらず、深い水脈をとおって、社会や政治も変革する力になると信じます。そうしなければ、おとなの都合で廻っている社会そのものが行き詰り、窒息してしまうことでしょう。

 及ばずながらお手伝いします。頑張りましょう。

〇〇〇〇様

2019,11,24              曽我逸郎

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