安冨歩講演会で考えた事

 2019年11月17日、飯田市鼎文化センターで安冨歩講演会が行われた。
 主催:伊那谷市民連合、協力:南信州地域問題研究所、信州市民アクション、立憲民主党長野5区総支部、国民民主党(第5区)、日本共産党(上伊那、飯田下伊那)、社会民主党長野県連合五区支部連合、れいわ新選組、緑の党グリーンズジャパン

 安冨歩先生は、東京大学東洋文化研究所教授、経済がご専門で、日本の満州支配の金融面からの分析などで功績をあげておられる。先の参院選全国比例にれいわ新選組がら立候補されたことや女性装でも話題になった。マイケル・ジャクソン、論語など広い分野から深い洞察に基づいて社会や人間を鋭く分析しておられる。
 わたしの暮らす中川村と同じ長野県伊那谷の下伊那郡泰阜村に生活の基盤を移されたと聞いて、是非お話を伺いたいと思いお願いした。
 わたし自身の興味は、国の財政悪化を理由に国民負担を増やしサービスを削ることへのご意見や、最近話題のMMT(現代貨幣理論)など反緊縮の考えに対するご見解、ベーシックインカムのもたらす影響をご専門の不確実性の経済学からどう見るか、などお聞きしたかったが、講演のタイトルは、『次世代の国家像~経済から暮らしへ~』となった。

 話の切り出しは、わたしにとって非常にショッキングな言明で始まった。
 以下、▼と▲ではさんだ部分は安冨先生の講演内容。ただし、文責は曽我。さらにその中の(  )でくくった部分は、曽我による加筆。


 選挙に意味はない。立候補者は、「世の中をこうします」と訴えて投票を求めるが、政策は実現できない。政治家、政党、政権に社会を変革する力はない。世の中は、巨大なシステムが自律的に展開し、それによって進んでいく。トランプとオバマとはずいぶん違うように見えるかもしれないが、少し離れてみればたいした違いはない。どちらもシステムが進展していく中の歯車。システムの動きを止めよう、あるいは、方向を変えようとすれば、システムにつぶされる。民主党政権が良い例。山本太郎が首相になっても、変革しようとすればシステムにつぶされる。国民大衆に焼き殺されるかもしれない。その後には、反動でファシズム政権が生まれるかも。逆にシステムに掉さして乗っかれば、今の安倍政権のように長続きする。
 また、公約のとおりに変革をもたらしとしても、それは思いどおりの結果に結びつくものではない。南満州鉄道の権益を米国資本に売る契約を破棄した時、当時の日本人はこぞって正しい判断だと讃えたが、もしあの時売っていれば、戦争への道に進むこともなく、逆に大きな漁夫の利を得ていたかもしれない。正しい判断をしているつもりでも、本当に正しいのかどうか、その時点では分からない。
 選挙や議会などは、システムのためのガス抜き装置に過ぎない。選挙に行って投票しても、なにも変わらない。自分の暮らしが良くなりはしない。そのことをよく知ってしているから、人々は選挙に行かない。選挙に行かない人は、主権者としての大切な権利を理解せず愚かなのではなく、選挙の無意味さをよく認識しており賢明なのである。

 講演の冒頭に聴衆をひきつけるため、あえてショッキングな言い回しをされたのかもしれない。あるいは、複雑系の視点から歴史を分析すれば、そういう結論にならざるを得ないのかもしれない。
 しかし、このように言われてしまうと、すべての努力が否定され、無効化され無意味になってしまう。我々は、眼前のさまざまな問題に直面しながら、諦観し、なにもせず問題を受容するしかないのか。しかし、そんなことはできない。では、どうすればいいのか。
 2時間に及ぶ講演を聞きながら、ずっとそれを考えていた。

 講演はこのように続いた。


 現代の世界を動かしているのは、国民国家というシステム。ナポレオンが国民軍という、それまでになかった画期的かつ強力な軍隊を創設し、各国がそれに続いた。国民軍の経済的基盤として、資本主義革命が起こり、資本主義経済が始まった。人々の欲望を取り込み駆り立て競争させて前進する非常に効率の良い経済である。国民軍を機能させるために、民主主義や議会、学校制度が生み出された。これらによって、人々は自分を「国民」として捉えるようになり、戦争で国のために死ねる国民が作りだされた。学校は、使える兵士を育成するため、標準語や算数(や団体行動)を教え込んだ。(福祉もまた、兵士が後顧の憂いなく戦えるようにするために始まったと聞いた。)
 国民という意識を持たせる重要な要素が人権思想だ。これはキリスト教に根差している。日本は、欧州に1世紀遅れて、しかし、驚くべきスピードで国民国家に変貌した。だが、キリスト教に基づく人権思想は、今に至るも取り込むことはできていない。そのかわりとなっているのが立場主義である。
 14,5世紀以降、家制度が日本に暮らす人々の行動を規定していた。しかし、明治に始められた徴兵制度が家制度を崩しはじめ、高度成長期に家制度は壊滅した。国民国家は、家制度とは並立できない。家制度にとってかわったのが、立場主義。日本においては、人権思想の代わりに立場主義が国民国家を支えた。
 立場主義とは、自分の立場こそ重要で、それを守るためには、その立場に伴う役目をどんなことがあっても(死んでも)果たすという考え。これは例えば、生産ラインで働く工場労働者においてすばらしい成果を上げた。今ではオートメーションによって労働者の誇りを持てる役割は奪われているが、、。また逆に、誰かがどれほどひどい行いをした場合でも、それが立場に基づくものと認定されれば容認してしまうという悪しき傾向を日本人に与えている。
 (曽我私見:今気づいたが、立場主義は、上の立場にいる者にとってほど都合がいい。上の者の立場を下の者は知らないのだから、上の者は、自分の立場に付属する役目が複雑で重大だと思わすことができれば、どんな失敗・悪事も立場のせいにできる。また、下の立場の者を上の都合で自己犠牲に追い込むこともできる。特攻隊が典型だ。)

 中国は、1912年の辛亥革命からスタートして国民国家を作ろうと努力している。しかし、同時期すでに欧州では国民国家システムが行き詰まりにぶつかり、没落を始めた。賞味期限の終わった国民国家システムをいまさら目指すのは賢明でない。また、中国は、国民国家になるには、巨大すぎる。
 日本においても立場主義は機能しなくなった。
 欧米の国民国家や日本の立場主義が行き詰っているのは、経済的行き詰まりの結果である。(福祉や働く場を満足に提供できず、立場に付随する役割を責任をもって果たそうと思えるほどの待遇が提供されないから、国民は、自分を国民国家の一員として捉えることができなくなっている。)国民国家というシステムは、崩壊しつつある。
 (グローバル資本が各国より上にいて影響力を行使しているような現状は、国民国家システムの衰退を端的に示しているのだろう。)

 安倍政権は、崩壊しつつあるシステムに乗っかって暴走している。(岩礁に向かって崩れ落ちる波に乗るサーファーのようなものか。)なんとかソフトランディングを模索せねばならないのに、今、やろうとしているのは、スカイツリーやオリンピック、リニア新幹線、万博など、すべて経済が好調だった時代の再現だ。よき時代と同じことをすればよき時代が再来するはずと信じるのは、雨乞いと同様のまじないである。そんなことに膨大な資金を投じる我々は、雨乞いのために人や動物を犠牲として捧げた古代の人々を笑うことはできない。日本会議など安倍首相に近い人たちは、個人主義が諸悪の根源だと攻撃し、その裏返しとして家族主義を主張している。しかしこれは、すでに壊滅した家制度を復活させようとすることであり、実現できない。
 このまま安倍政権が続けば、ハードランディングするしかなかろう。それは例えば、行き詰った米国から在日米軍駐留経費負担(思いやり予算)の大幅増額を要求され、国民感情が米国から離反したけれど、非武装平和主義に徹するだけの腹はくくれず、自主軍備さらには核武装に至り、中国との(米国との)戦争が始まるといった展開もあり得る。(ハードランディングで底をぶち抜いて、日本が世界人類を滅亡させるということさえあるかもしれない。北京の蝶の羽ばたきがニューヨークに嵐を引き起こすという複雑系の考えからすれば、ましてや安倍政権では、大いにあり得る。)壊滅的ハードランディングを防止するためには、安倍政権を退陣させねばならず、それには野党共闘が必要だ。

 ずいぶん長くしゃべったが、タイトルの『暮らしへ』にまだ触れられていない。わたしたちは自分たちの足元の暮らしをもっと地に足の着いたものにすべきである、ということだ。『大草原の小さな家』のように。
 (曽我の感想:この部分、時間の関係ではしょった説明だったので、抽象的精神論的な意味か、インガルス一家のような自給的生活をすべきという主張なのか、不明。安冨先生が泰阜村に移住したことを考えれば、後者かもしれない。二十年近く前に脱サラ、Iターンして田舎暮らしを始めたわたしは先駆者だったことになる。しかし、ほとんどの人にとって自給的生活はおいそれと始められない。都会に住む人はどういう暮らしをすればよいのか。国民国家とともに崩壊しつつある資本主義経済に、欲望を煽られからめとられないようにする、ということだろうか。この点は、明確にはイメージできなかった。)
 もうひとつ、子どもを守ることが大切。教育に膨大な予算が使われているが(曽我コメント:日本の教育予算は、OECD諸国の中では実は大変少ない。対GDP比でも子供一人当たりでも最下位レベル)、学校は子どもを守る場所になっていない。子どもの貧困・空腹や虐待、いじめを見て見ぬふりをしている。(それどころか、学校は、今も国民国家の装置として、子どもたちを国家の都合に適合する人間に改造しているのではないか。)
 あらゆる攻撃から子どもを守らねばならない。学校に行かせるべきではない。攻撃にさらされた子供は、厳しい状況に遭遇した時、それを甘受し忖度し迎合することで身を守ろうとする。しっかりと守られた子どもは、難しい局面でもひるまずに克服する術を探ることができる。


 講演の内容は、概ね以上だ。軽妙さはまったく再現できていない。また、漏れや誤解があるかもしれない。ツイキャスで観ることができるので、是非ご覧になって確認して頂きたい。twitcasting.tv/inadani_shimin
 
 近代の世界を動かしてきたシステムの分析は非常に興味深かった。最後の「暮らしをきちんとすること」、「子どもを守ること」については、時間が足らず十分聞けなかったのが残念だ。
 ともあれ、最初に感じた「ではどうすればいいのか」という疑問は、最後まで残った。締めくくりに触れられた「暮らしをちゃんとすること」「子どもを守ること」が、その回答だったのかもしれない。
 しかし、システムが崩壊しつつある中、安倍政権はそのシステムに乗っかったまま、見当違いの復古主義や雨乞い政策に走り、とんでもないハードランディングに突入しつつある。「暮らしをちゃんとすること」と「子どもをまもること」で、国民国家を支えた人権思想や立場主義に代わる新たな規範を打ち立てようという主張かもしれないが、そんな時間的ゆとりはあるのだろうか。難局に恐れず立ち向かって克服策を模索できる次世代を守り育て、彼らの健闘に期待して任せればいいのだろうか。
 我々がシステムに立ち向かえないとすれば、システムが崩壊するのを待ち、それがどれほどのハードランディングだったとしても、その後でしか手を打つことはできないのだろうか? SFで描かれる破局後の世界再建の物語のように?

 勇敢に育った子どもたちが新たな世界を構築できるのなら、今の我々にもよりよい社会をつくるために努力できるのではないのか。「ちゃんとした暮らし」をして「子どもたちを守る」ことができるのなら、よりよい社会をつくろうとする政治的努力をなぜ諦めねばならないのか? 安冨先生自身、終盤では「野党共闘して安倍政権を退陣させる必要がある」と言われた。選挙にも政治にもそれなりの意味はあるのである。

 アメリカ大統領もシステムの歯車という説明があった。しかし、システムは、歯車で組み立てられた機械のように決定論的に駆動するのだろうか。そうではない筈だ。いろいろな勢力の思惑や人々の感情がせめぎあい渦を巻くところに自然現象なども折り重なり、システムは展開していく。クレオパトラの鼻が低かったら世界史は変わっていたと言われるように、世界は偶然を含めた無数の縁で動いていく。たくさんの指が乗ったコックリさんのようなものだ。我々の取り組みは、北京の蝶よりは大きな影響を世界にもたらすに違いない。それが吉と出るか凶と出るか、確かにそれは分からない。しかし、だからといって、子どもたちの貧困や、展望を持てない若者たちや、環境破壊や、グローバル資本の横暴や、国を税金の集金装置にしてそこから仲間内で甘い汁を吸うやり口や、その他たくさんの問題を放っておくことはできない。世の中をよりよくできるのかできないのかを思案しながら立ち止まっているわけにはいかない。放っておけない、なんとかしたい、その思いだ。已むに已まれぬ様々な思いがぶつかり合い収斂して世界を動かしていくのではないのか。
 昨今話題の右派ポピュリズムも、国民国家システムの行き詰まりに直面して、なんとか先祖返りで対応しようとする足掻きだろう。国民国家システムの行き詰まりの中で、さまざまな勢力が苦しみ、さまざまにもがいている。そのもがき足掻きのせめぎあいの中から、新たなシステムが生まれてくる。そのシステムが吉か凶かは分からない。だが、我々だけが冷静合理的な判断をしていると上品に澄まして、観客席から斜に構えて見下ろしているわけにはいかない。

 安冨先生や我々よりも、安倍政権を支える連中は、はるかにマメにずる賢く周到に選挙活動をしている。「桜を観る会」もその一環だ。長野5区では、伊那谷議員連盟という会をつくり、勉強会と懇親会を抱き合わせた会合を定期的に開いて、ノンポリ新人市町村議員を自分たちの側に巧妙に取り込んでいる。シロアリのアリ塚のように、利害としがらみで結びついたヒエラルキーを構築している。それを皮肉な視線で眺めながら、どういう世の中にされるのかと心配しているだけではいられない。ヒエラルキーの内側の人間だけが甘い汁(「桜を観る会」に呼んで貰えるといったレベルから莫大な利権まで)を吸って、外側の人たち(選挙に行かない人たち)は消費税や健康保険料・介護保険料等を取り立てられ、医療費は上がり福祉は削られ過度な倹約を強いられ、個人消費が低迷して経済が沈滞する、という政治は改めなければいけない。頑張らざるを得ないのである。開き直って努力するしかない。

 もうひとつ、講演を聞いて改めて感じたことがある。国民国家の一員であるという意識とか立場主義というような、必ずしも明確に言語化されていないが、広く共有される自己認識が、人々のふるまいを規定し、世の中のあり方(システム)に大きな影響を与えているということだ。これを自己パラダイムと呼ぼう。
 従来の自己パラダイム(国民意識や立場主義)が時代の変化に適合しなくなったために、システムが大きく揺らいでいる。ということは、新たに広まる自己パラダイムが、次のシステムをつくるということになる。果たしてよきシステムが生まれるのか、悪しきシステムになるのか。なんとしても良きシステムであって欲しい。

 このことについては、実は既にわたしはひとつの考えを持っている。そしてそれは、未だかつてない良きシステムを生み出すに違いないと考えている。
 それは、自分を存在としてではなく、現象として、より詳しく言えば、縁によって起こされる受動的反応として捉える、というものだ。
 勘のいい方は仏教的な響きを感じたかもしれない。そのとおり、釈尊の教えから学んだことだ。『「苦」をつくらない サピエンス(凡夫)と超克するブッダの教え』(高文研)という本に詳しく書いた。是非ご一読願いたい。http://www.koubunken.co.jp/book/b372784.html

 人(凡夫=普通の人=ホモ・サピエンス)は、自分を実体視し、かつ美化して捉え、それを周囲に認めさせ、自分でも納得して安心しようと懸命になっている。これが我執だ。これは、よき向上心となることもある。しかし、「わたし」は、立派な素晴らしい存在ではなく、縁によるそのつどそのつど起こされる反応なのだ。一瞬一瞬移り変わる現象の上に、実体的な自分を妄想してそれにどれだけ執着しても、それは執着できる対象ではない。我執は達成不可能な執着なのである。それ故、我執はますます深刻化し、我執を実現できない自分を責め、人のせいにして攻撃し、自他を苦しめることになる。
 しかし、「わたし」はさまざまな縁によってそのつど起こされる苦を生む執着の反応(凡夫)なのだ、と認識できれば、苦をつくらぬように自分に気をつけることができる。広告や、人を競わせる資本主義経済、政治的プロパガンダなどは、執着を利用して人を駆り立てる手管であると正しく認識し、警戒することもできる。同時に、他の人々も凡夫なのだと理解できれば、容認し許したうえで間違いを避ける方法をともに考えることもできる。
 自分が存在ではなく反応であることを本当に腹の底まで納得できれば、我執の愚かさが痛感され、我執はおのずと消沈し、我執に押さえ込まれていた慈悲が働き始めるのだが、そこまで行きつくことは、よほどの縁に恵まれなければ実現しない。しかし、自分が凡夫であることを認識して自分に気をつけ、人も凡夫であると認識して許すことが、人々に共有されるパラダイムになれば、そこから生まれる「システム」はとても良いものになるに違いない。凡夫がお互いみんな凡夫と認識し合って、間違いを避けつつどのように社会を運営するかを考えるようになれば、それは熟議の民主主義の新たな基盤にもなる。

 講演を聞いて、三つのレベルで努力しなければならないと再確認したした。一つは、身近な子どもたちを守り、暮らしをきちんと整えるという日常の足元の努力。二つ目は、より良い社会を目指そうと仲間とともに頑張る世俗的政治的な努力。三つ目は、私たちは存在ではなく反応だという新たな自己パラダイムを問いかけ、私たちホモ・サピエンスが自己を妄想して執着し、自他を苦しめる反応(凡夫)であることを提起し、自分に気をつけ互いに赦し合い、新たなよき社会システムが誕生するよう努力することを世界に呼び掛けることである。
 三つ目こそ、わたしが自分の一番の任務と捉えることだったが、このところ二番目に追われていた。三番目も忘れてはならない。
 再認識させて下さった安冨先生に感謝申し上げたい。

間違いの訂正、ご意見、ご批判など、お聞かせください。

2019年11月22日 立憲民主党長野県第5区総支部長 曽我逸郎

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