集落をみんなで運営するということ

 今年、わたしは、わたしの暮らす集落、柳沢地区の総代という役を仰せつかっています。回り番ですが、村長をやっている間は免除されていたので、昨年の副総代に続いて、今年は総代。一番重い役を引き受けました。
 ようやく年末の任期満了が近づき、「ああやれやれ、あと少し」という心境です。
 この間、議決機関である伍長さん方はじめ、各部長さん方、そして地区住民の皆さんのご協力を頂き、無事なんとかやってこれました。
 草刈りや水路の泥上げといった共同作業、各種お祭り、バレーボール大会や運動会、地区旅行など盛りだくさんな行事を行いました。残るのは、来年の役員体制を固めて、総会で新体制や事業報告、決算報告の承認をもらい、引継ぎをすることです。

 こうして振り返ってみると、安冨先生が講演で仰った「毎日の生活を整えること」、あるいは、先日の横浜の『「協同」が創る全国集会』で沖縄の青年が語った、「近隣の人たちとコミュニケートしながら暮らしを手作りしていくこと」は、昔から我が柳沢ではそこそこにできているのではないか、と思い至りました。あたりまえすぎて意識しないまま自然にしっかりと取り組んできたと思います。

 20年ほど前、突然移住してきた縁もゆかりもない我々家族を迎え入れてくれ、市町村合併の可否という大論争の副産物としてではあったけれど、そんなわたしを村長にしてしまったのは、中川村のおおらかさの現れに違いありません。
 しかし、中川村でなくとも、日本各地の地方に続いてきた集落は、どこだって、みんなで自分たちの地域を丁寧に育んできたのではないでしょうか。

 ただ、地方の共同体は、システムの末端として、住民を押さえつけることもあります。極端な例は、『故郷はなぜ兵士を殺したか』(一ノ瀬俊也・角川選書)に書かれている戦時中の「故郷」です。住民は、村長も、出征兵士も、戦死した兵士の母親も、本当の想いを胸の中に封印し、空気が要求する役割を演じ合って、お互いをますます追い込んでいきました。
 今でも、どの集落にも声が大きくて影響力の強い人もいるし、その逆に窮屈さや居心地の悪さを感じている人もいるでしょう。しかし、人間の集団であればそれを完全になくしてしまうことはできません。閉鎖的、抑圧的になってしまうことが時としてあるのは、田舎の弱点です。そういう危ない傾向をしっかり意識し、風通しよく、圧力を生むおかしな空気は換気しながら、みんなで自分たちの暮らしを受け継いでいくことが、とても大切なのだと思います。そのためには、地区の規約を文章化して共有するといったことも必要だし、なにより、変だなと感じることがあればそのつど、誰でも気安く「おかしい、ちょと待って」と口にできる雰囲気を育むことを心がけねばなりません。

 村長の時、敢えて物議をかもす発言をして、思ったことを言いやすい空気を拡げようと考えていました。ある程度はできたのではないかと思います。もっとできたかもしれないけれど、所詮は凡夫、凡夫としてはそこそこにやれたと思います。
 みんなが凡夫なりにそこそこ心がけること、変だなと思うことには「ちょっと待って」と声を出すこと。それが地域の風通しをよくして、ひいては、歴史を支配するシステムを徐々に根っこから変えていくことにつながるはずです。

 選挙で風を起こしてシステムのねじ曲がった枝を折ったとしても、根っこが変わらなければ、元の木阿弥になります。さらに悪くなる揺れ戻しもあるかもしれません。勿論、選挙で勝って、眼前に迫る破滅的政権の破滅的ハードランディングを防ぐことも大切ですが、それだけでは不十分です。選挙の後も考えること、観念的にならず地に足をつけて、自分といろいろな人の思いを尊重することが大切だと思います。

 まだ未消化できちんと文章化できませんでした。引き続き考えてまいります。

2019,12,7       そが逸郎

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