2021年 憲法記念日の前日に
中川村村長の時、「国旗に一礼しない村長」として話題になりました。村議会の一般質問で、こんな質問を受けたのです。 「入学式や卒業式などの式典で壇上に上がる際、国旗に一礼しないようだが、それはなぜか?」 理由は、日本を、誇りにできる国、外国の人たちからも尊敬され愛される国にしたいからです。 解散総選挙が遠くないという状況で、この話題は、相手陣営から格好の攻撃材料にされるかもしれません。なので、先手を打って説明しておきます。 国旗や国歌へ敬意を頭ごなしに強制することは、国をよくしていこうとする意欲を押さえつけることになります。 当時、大阪で維新の橋下府政による国旗・国歌の強要が議論を呼んでいました。その背景があったので、もともと感じていた、国旗・国歌を強制する空気は嫌だという思いが一層強くありました。 なんであれよくしていこうと思うなら、現状を客観的に分析して、あるべき理想と引き比べ、現状を理想に近づけていく方策を考えなければなりません。では、日本が国として目指すべき理想とはなんでしょうか。国民一人一人、いろいろな考えがあるかもしれません。しかし、それは、既に明解に文章化され定められています。 日本国憲法前文です。 憲法前文の末尾は、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」と高らかに謳っています。 「崇高な理想と目的」の内容については、是非原文にあたってください。短い文章です。わたしなりに要約すれば、自分の国のことだけではなく、すべての人々が苦しみを免れて平和に暮らせる世界にするために、世界中のみんなとともに努力する、という誓いです。 虚心に日本の現状をみて、この理想を実現しているでしょうか。 たとえば、核兵器廃絶や気候変動対策への姿勢は、理想とは正反対だと言わざるを得ません。貧困や差別もほったらかしです。格差はますます広がっています。 理想に向けて日本が克服すべき問題を課題として捉えることを、国旗国歌に黙って敬意を示せ、という空気は押さえつけることになります。 「そんな理想など夢物語だ。厳しい客観情勢を見よ。もっと現実的になれ!」 そういう声が聞こえます。しかし、現実に妥協的な「現実主義」は、現実をさらに悪化させます。 理想の実現は簡単ではありません。しかし、理想を目指して努力することはできます。理想を実現していなくとも、日本が理想の世界のために真摯に努力することを明確に宣言し、言葉どおりに行動するなら、国民は国を誇りに思えるし、世界中の人々も日本を敬愛してくれるでしょう。 目先の損得や都合に妥協せず、歯を食いしばって理想ににじり寄る方策を模索すべきです。 国家は力をもっています。それを良い方向にも、悪い方向にも使うことができます。人々を救うことも、苦しめることもできます。人々の苦しみを増す国は悪い国であり、減らす国は良い国だと言えるでしょう。 日本を誇りにできる良い国、世界から苦を減らす国にするために、現状を理想に近づけていきたいと思います。 ところが、国旗や国歌を強要する空気は、国の現状を客観的、批判的に見ることを抑制します。 小さな村の学校の式典にまで、残念ながらそういう空気は拡散しています。 わたしが「国旗に一礼しない村長」として話題になった時、日本中からたくさんの葉書やメールが届きました。いくつかは、こんな主張でした。 「村長たるもの、心の中で舌を出していてもいい。外見上では、国家への敬意を示せ。」 心の中で舌を出しながら、外見だけの敬意を示すとは、何と失礼なふるまいでしょうか。 わたしは、心から誇りにできる国にしたうえで、その誇りを示したいと思います。そもそも空気の圧力に服従させられるのは、気持ちのいいことではありません。 外見だけの服従を要求する人たちは、国を良くしようとは考えておらず、ただ、人にいうことを聞かせたいだけなのです。 空気の圧力に屈することは、憲法12条が国民に要求する「国民の不断の努力」を放棄することでもあります。 従わせようという空気のあるうちは、国旗に一礼しないでいようと思います。「国旗に一礼しない総支部長」と呼んで頂ければと存じます。 |
#そが逸郎立憲民主党長野5区総支部長
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